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山本くんとお姉さん2(オリジナル版)

山本くんとお姉さんシリーズ



>これまでにでてきたひと
・山本秋人……山本くん。姉と二人暮らし。なんだかんだ言って姉萌えだが、空気を読むのはやや苦手。
・山本亜由美……弟が全てのキモ姉。弟にはどうやら「優しい姉さん」と誤認されている。当然嫉妬深い。
・藤原里香……山本くんの隣の席の女の子。おとなしいけどちょっとだけ腹黒。なかなかに嫉妬深い。



山本くんとお姉さん2 〜教えてくれたモノ


<1>



――
―――『……あなたが離れていくからよ、デニム』

しゃくり、しゃくり。
姉さんの手が翻り、僕のお皿に剥かれたりんごが次から次へと盛られていく。

―――『離れていく? 僕はいつもカチュア姉さんの側にいるじゃないか! これからだって!』

もしゃり…、もしゃり…。
僕は鈍重な手を伸ばし、りんごを無理矢理口元へと運ぶ。
今のところ生産が消費を格段に上回っているので、やや焦り気味だ。

………
……


とある休日の昼下がり。お昼ごはんのあと。
「秋くん、おりんご剥いてあげるね〜」
姉さんはそう言って、果物ナイフを取り出した。

長い髪を後ろで束ねて、爽やかにりんごを剥き始める姉さんを見ていると、自然と頬がほころぶ。
女の人のそういう姿って、なんだかほんわかして優しげでいい。
窓からは、柔らかい五月の光。
そんな些細なモノに幸せを感じる自分が少し照れ臭くて、僕はテレビのリモコンに手を伸ばした。


―――『嘘よデニムッ! あなたは私より戦いを選んだわッ!
     自分の理想を実現させるためなら、あなたは私を見捨てることができる……!』
―――『カチュア姉さん……。』

そして二十分後。
瞬き一つせず、食い入るようにテレビを見つめながらながら、黙々と果物ナイフを操る姉さんと。
そんな世界に入れ込めず途方にくれながら、りんご咥えてズボンのベルトを緩めようか悩んでいる僕がいた。
唸るテレビのスピーカーからは、さっきからなんか物騒な台詞が吐き出され続けている。
タクなんとかオウガとかいう難しい名前の、古いドラマの再放送らしい。
しかし正直なところ、今の僕の頭の中に番組内容が割り込む余裕なんぞない。

―――『たった二人きりの姉弟なのにッ!!』
―――『姉さんッ!待ってッ!』

あぁああ、そんな風にすると、あぁあぁ……。
さっきからテレビに夢中で、一瞥もされていない姉さんの手元が危なっかしくて……うわああぁああ……。
徐々にあやしい手つきになっていく姉さんのナイフ捌きの前に、番組のスリルもサスペンスもへったくれもあるものか。
それでいて、剥く作業のスピードと刃筋の鋭さだけは加速していくというこの不条理。
先ほどまで優しかった五月の日差しまでが、果物ナイフを鈍色に輝かせて僕の視線を釘付けにしていた。

「あ、あのさぁ、姉さん、僕もうお腹いっぱいだし……」
―――『私はデニムを愛していたわ。たった一人の弟だもの、当然よね』

一声かけようとした刹那、姉さんはサッとテレビのリモコンを取り上げ音量を上げた。
画面に固定されたままの瞳がうるうるして、今にも零れ出しそうだ。
僕には何をやっているシーンなのかよく分からない番組だが、そんなにも感動的な内容なのだろうか?
まぁいいやどうでも。ともかく、いくらなんでももうこれ以上は食べられない。
ナイフも危ないから、そろそろやめにして欲しい。

「ね、姉さん、僕もういらないからさ……」
―――『でも弟じゃなかった。そして私を見捨てた……』

姉さんがぐっと唇を噛みしめたので、慌てて言葉を引っ込める。
うるさいと怒られるのかと思ったが、どうやら矛先は僕ではなかったみたいでホッとした。
……いや、ホッとしてちゃいけない。
強く握り締めたナイフが少し震えている右手、新しいりんごを求めてビニール袋の方へと伸びていく左手。
そんな光景が僕を苛む。
ああぁあぁだから姉さん、ちゃんと手元見てないとホントに危ないってば。

―――『手に入らないのなら、いっそ……』

……ねぇ。
逆手にナイフ握って、りんご剥けるの?…?」




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<2>


電話のベルが鳴った。
姉さんが席を立って、僕は呻きながらソファーに身体を沈めた。


……
………
あれから。テレビを満足気に消し、にこやかに僕の方を振り向いた姉さん。
姉さんの正面には、一仕事終えた達成感の余韻に浸りお茶を啜る僕。
僕の前にはりんごのお皿。
お皿の上には、見事殉職を果した胃袋の善戦によってなんとか残り二人前にまで撃ち減らしたりんごども。
そして。
「お姉ちゃんの剥いたおりんご、一つも食べてくれないの……?」
これは、姉さんの第一声。

可憐に咲いた花びらがしおれていく様を、100倍速でビデオ再生するとこんな感じだろうか。
陽光に踊るような姉さんの笑顔が、みるみるうちにしょげかえって絶望色へと染まっていく変化を見せ付けられる。

あぁ……。
あぁ、そうなんだね、姉さん。

間違っていたのは僕の方だ、姉さんじゃないよ。
姉さんがとっとと片してしまった、山のような剥きカスどもは何も語れはしない。
剥きりんごの需要と供給のバランスを守るために散った胃袋の尊い犠牲は、誰も知らない英雄譚。
姉さんはテレビに夢中だった。だから僕の奮戦ぶりなど知らないし、剥かれたりんごの個数など関係ない。
知らないということは存在しないということだ。
姉さんに突きつけられたのは、「剥いてあげたのに弟が一つも食べてくれない」という事実のみだ。

『姉さんの目の前で、姉さんに感謝しながら、おいしくりんごを頂く姿を見せてあげる』
姉さんが僕に期待していたささやかな幸せとは、まさにそれ。たったそれだけ。
すなわち、姉さんがいつも言っている「弟としての当然の義務」
それ以外は初めから要求されていない。
それ以外には初めから意味がない。全く。全然。眼中にないんだ。姉さんは。
「さっきまで食べていた」という言い訳は、「昨夜宇宙人とババ抜きをした」という主張と同価値でしかない。

うなだれきって、仔犬のように小さくなって、肩を揺らし始めてしまった姉さん。
握り締めたままの果物ナイフの刃先が、姉さんの喉元で怪しく震えている。ように見える。
ホラ、かける台詞は一つじゃないか。恐れるな、山本秋人。
「いただきます、姉さん」
ぱぁっとほころんだ姉さんの喜色に、勇気が奮い起こされる。
勇気がこの場でいかほどの戦力を為してくれるかは、まるっきりの別問題だったが。

………
……


唸りながらお腹をさすっていると、姉さんのスリッパがぺたぺた帰ってきた。電話終わったのかな。
見上げれば、腕組みしながら小首をかしげて、果物ナイフのフタでほっぺをトントン、としてる姉さん。
何か思案中なご様子だ。
……ねぇ。そのナイフ、いい加減片付けようよ。

「……秋くん」
「ん、なに?」
「秋くんは休日なのに、そうやって一日中ゴロゴロしているつもりなのかな?」
「は?」

さっきまでとは雰囲気一転、冷ややかな目つきで、急にそんなことを言い出す姉さんに狼狽した。
第一、別にだらだら過ごすつもりはない。
月曜までの山積みの宿題が用意されていたので、今日は一日がかりで片付ける計画だったのだ。

「もっとお日様の下に出ないと不健康だと思うな、お姉ちゃんは」
ビシッと、果物ナイフで僕の鼻っ面を指し示す姉さん。
……というか、それもう使わないんだから片付けようよ。

「だって姉さんいつも――」
そもそも僕があまり外出しないのは、姉さんの言いつけによるものだ。
買い食いや外食は固く禁止されているから、コンビニなどに出入りする必要もない。
たまに散歩に出ることもあるけど、気がつけば姉さんが隣りにいて、腕を組まれて一緒に歩いている。
中学までやっていた野球部も高校に入ってから辞めてしまったし、今は庭で一人で素振りをするぐらい。

「お姉ちゃんお留守番してるから、たまには友達と外で遊んでおいでよ」
「でも孝輔だって今日バイトだし……。みんな都合あいてるかなぁ」
「そんなの関係ないよ」
いや関係あるでしょ。
「あのさ。僕今日は、夜まで部屋で宿題やろうと思っていたんだけど」
「そんなの駄目だよ。行っておいでよ」
駄目って言われても。

「じ、じゃあ……図書館……。図書館で宿題してくる……でも、いい?」
「いいからっ!うだうだ言わずに早く行きなさいっ!」
有無を言わさずソファーから引っ張り上げられた。
仕方ないなぁ、それじゃあまず、荷物を鞄に詰めて、それから……。
ん……。
「あ、でも姉さん。図書館は屋内だから、お日様の下で健康的な外出ってのにはならないんじゃ」
「もうっーー余計なことはいいからっ! 行〜く〜のっ!!」
姉さんがぶんぶん腕を振って力説した拍子に、果物ナイフのフタが外れて飛んで行った。
慌てて行って、拾って、戻って、刃先にはめてあげる。
「ねぇ、それ、もう仕舞わない?」
「愚図愚図せずに早よいけーーーーッ!!」


……
………

「あ、姉さん待って携帯忘れ――」
「秋くんッ、聞き分けの悪い子お姉ちゃん嫌いだよッ!? さっさと行くッ!」
退路を塞ぐように廊下に立ちはだかって、僕をぐいぐいと押し出していく姉さん。
「いや、でも、携帯――」
「もうッ! いいから言うこと聞いてッ! 急いでッ!」
「……その果物ナイフ、ずっと持ってるの?」
「秋くんッ! お姉ちゃん怒るよッ!?」

何をそんなに慌てているんだろう……?
まるで僕を追い出したがっているような態度に、反発を覚えなかったと言えば嘘になる。
なんだよ……人を急に、邪魔者みたいに……。
僕に会わせたくない、誰かでも来るのかよ……。

久しく感じなかった苛々に、不快感をもてあまし始めていた僕。
だから玄関を開けた時には、もう既に仏頂面で。
そこに居た人の質問にはぶっきらぼうに答えた。
「お出かけですか、秋人さん?」
「図書館だよ」


……ん?

「あ。あず?」
「こんにちわ、秋人さん」
表情ひとつ変わらない、静かな挨拶が返って来る。
制服姿のこの細身の少女は、山本梓。僕より一つ年下の父方の従兄妹だ。

「あず、今日来る日だったんだ?」
「学校の帰りについでだから寄って行ってやれと、さっきお父さんから電話がありまして」
「そっか、いつも悪ィな」
「けど、図書館にお出かけなんですよね?」
「僕はね。でもどーぞ、上がっていってよ。……姉さん?」
玄関先で、なんだか固まっている姉さんだ。

「……秋人さん。折角ですから、私も図書館までご一緒していいですか?」
「いや、でも……。僕は構わないけど、いいの?」
「読みたい本もありますし、たまにはいいでしょうから」

単に宿題やりに行くだけなのに……。また梓に余計な負担をかけやしまいか?
いやでも、どうやらこれから、家にお客さんが来るみたいだ。それも、僕が邪魔になるぐらい重要な……。
だったら梓も連れて行った方が、邪魔にならないだろう……。

「じゃ、行って来るよ、姉さん」
相変わらず固まったままの姉さんにかけた言葉。少しだけ冷たいモノが混じろうとするのを、止められない。
……どうぞ、ごゆっくり。僕は行くから、さ。

「あ、秋くん? やっぱり今日は雨降りそうだから――」
「亜由美さん、予報では夜半まで降水確率0%です」
「で、でも梓ちゃん、もう遅いから――」
「亜由美さん、まだ午後二時です。秋人さんと一緒におりますからご心配なさらずに」

ぺこり、と可愛らしくお辞儀をして、梓が玄関を閉めた。




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<3>


僕と姉さんが二人暮らしを始めて、もう三年になる。


両親の海外勤務を知らされたのは、僕が中学一年生を、姉さんが高校一年生を終えようとしていた春だった。
その時の僕はどこか他人事のように、両親がこれから自分達をどう扱うのだろうか、ぼんやりと考えていた。
いずれにせよ子供の身でどうこう言える問題ではない。
親の決定に従うだけ。そう思っていた。

両親も決して、自分本位で子供を顧みない人達ではない。
むしろ構ってやれない分、余計に責任感が募るというものだろうか。
父さん達が第一に懸念したのは、親不在の家庭が思春期の未成年に及ぼす影響について。
――やはり、このまま置き去りにしていくわけにはいかない。
――かと言って、今の子供達の世界を壊してしまうのも可哀想だ。
そして両親は提案した。おじさんの家、すなわち梓の父親の家で預かってもらおうか、と。

おじさんは大手不動産会社の重役で自身でもマンションを経営している、すなわちとても裕福な家庭の主だ。
家も広いし、責任ある立場の人で世間の信用も高い。住所が近いので転校の必要もない。
子供の頃から泊まりに行ったりしていた家だ。両親とも仲がいいので、喜んで迎えると言ってくれている。
子供達への影響が最も少ない、考えうる限りで最良の選択肢。
周囲のみんなが、その選択肢を支持した。父さん母さんも、おじさんおばさんも、梓も。
ただ一人を除いて。

姉さんだけが。
どういうわけか姉さんだけが、「この家」にこだわった。
「ここでこのまま僕と二人で暮らす」と言ってきかなかった。
そのためならどんなことでもすると言い張った。

当時、毎夜遅くまで姉さんと両親が議論していたのを、よく覚えている。
そして空が白みはじめる頃。自室に戻る前に姉さんは必ず、寝ている僕の傍らに座り込んだ。
「一緒にいようね。ここで、ずっと、一緒にいようね」
そう囁きながら、僕の髪を優しく撫で続けた。
……寝ている素振りをしていただけだから、それもよく覚えている。

そして刻一刻と、海外への出発の日が近づいていって。
一向に結論が出なくて。
姉さんが折れなくて。
「お前はどうしたい?」
ただぼんやり議論を聞いているだけだった僕に、急にみんなの目が集中して。
成り行き上、事態の決定票みたいなモノを押し付けられて。

姉さんが、僕の傍らで、縋る様な目で見つめていて。
その目をみていたら、くるしくて。
いつかみた、なつかしい何かが、こぼれだしそうで。僕は。
だから、

だから僕は――

――




そして今の生活が出来上がったんだ。

両親は今でも、この状況には反対している。
二人暮らしは事実上黙認してもらっているに過ぎない。
今年ハタチになる姉さんはともかく、僕は基本的におじさんの保護監督に服していなければならないのだ。
僕が物心つく前から家を空けがちで、ろくに責任を果せずじまいの後ろめたさからだろうか?
父さんも母さんも、僕に関しては五月蝿いほど過剰に心配するきらいがある。

そんな遠い異国の空の両親に、僕らのことを懇願に近い形で託されているおじさん。
それでも、可能な限り僕達姉弟の意思も汲み取ろうと、板ばさみになりながら努力してくれている。
「監視」という名目で家にお茶を飲みに来るおじさん。世間話に来るおじさん。
――これが落しどころだった。そしてそれすらも滅多にあることではない。
居を別にしている僕らを四六時中監督するには、おじさんは多忙すぎるのだ。

だから娘の梓がおじさんの代理として、こうやって家に様子を見に来る。
多いときには週に一度。最低でも半月に一度。
それも実際には「様子を見る」なんて堅苦しいものじゃない。
『ちょっと亜由美ちゃんとこに遊びに行ってくれんか。これ持って。秋人君の顔も見てきてやってくれ』
……結局こんな感じで、一人娘にお土産を持たせて、お使いを頼んでいるだけ。
ただ家に上がってもらい、一時間ぐらいお茶を飲むなり僕の部屋で本でも読んでもらうなりして、帰るだけ。

こんなのは単なる儀式だ。笑えるぐらいに無味乾燥な形式だ。
年頃の従妹の貴重な時間を奪ってしまっていることに、心苦しささえ感じる。
けれどそれでも両親にとっては至極大切なことであり、従っておじさんも蔑ろにはできない最低限の体裁。
そして何より、干渉がこれだけで済んでいるのは紛れもなく、おじさんが僕らのことを信用してくれているからなのだ。

だから僕達は、そんなおじさんの心遣いと信頼を裏切らないように。
平穏に、自立して、正しく、健康的に生活していなければならない。
もし裏切るような真似をしでかしたのなら――
――少なくとも僕はすぐに、この家から引っ張り出されておじさんの下に預けられるだろう。
僕と姉さんの二人暮らしは、そういう基盤の上に成り立っているのだから。

二人では不自由なこと、いっぱいある。
努力しなければいけないことだって、沢山気づかされた。
それでも、僕は。

――この家で一緒に暮らしていたい――
あの夜の、姉さんの囁き。

想いの欠片。



かなえてあげるために。




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<4>


「秋人さん」
霞みゆく想いの向こう側から、現実の梓が話しかけてくる。
いけないな。昔みたいにこうやって梓と街を歩いていると、物思いに耽ってしまう。

「さっきはとても慌しいご様子でしたね。図書館へは急ぎの用なんですか?」
「いや全然。僕は宿題をする環境が欲しかっただけだから。あずこそ、今日は学校?」
「午前中だけ課外授業があったんです、外から講師の方を招いて。私の学校、そういうの多いですから」

眩しいほどの白い肌に映える、チェックのスカート。ブレザーの胸元に咲くワインレッドのリボン、厳かな校章。
艶やかな流れる黒髪に、可愛らしいベレー帽。
……彼女の纏った制服は、地元でも有名な中高一貫の名門女子学院のものだ。
気品と可憐さを兼ね備えたこの制服を身に着けているだけでも、その名声と相まって地元では特に目立つ。
……実際、平均偏差値はうちよりずっと上だ。
彼女と並んで歩いているだけでも、同世代の男子にはおそらく垂涎の一事だろう。

本当に綺麗になったよな、あず……。
従妹の成長ぶりに誇らしささえ感じながらも、どこか寂しげに微笑んでいる自分を強く自覚する。


僕と、姉さんと、梓。僕らは、三人兄妹のように子供時代を遊んでいた仲だ。
一人っ子の梓は、僕を“お兄ちゃん”と、姉さんを“お姉ちゃん”と呼んで慕ってくれた。
特に僕にはよく懐いてくれて、いつも甘えてきて、どこへ行くにも纏わり付いてきたものだ。
一緒にお風呂にまで入ってこようとして、よく姉さんと喧嘩になっていたっけ……。
家が近くで両親が仲良しとなれば、子供心にはもう垣根など無い。
従兄妹同士、お互い泊まったり泊まりに来たりの往復だった。

それでも、そんな時間は長くは続かない。
まず最初に、僕らとは少し年の離れた姉さんが、かつての三人のようには遊ばなくなった。
さらに僕が中学に上がり、梓が中学入試の猛勉強を始めた頃から、僕も梓も頻繁な行き来はできなくなった。
そしてあれは、僕と姉さんが二人暮らしを始めたのと丁度同じくらいの時期だ――
――僕のことを“お兄ちゃん”ではなく“秋人さん”と呼ぶようになったのは。
――よそよそしい、他人行儀な言葉遣いをするようになったのは。
――屈託ない笑顔を向けてくれることもなく、無表情で、淡々と接してくるようになったのは。
――どんなときでも近づきすぎることなく、いつだって僕との間に「壁」を作るようになったのは。
今でも、仲はそんなに悪くないと思っている。
でもそこにはもう、はしゃぎあった昔のような、無邪気な空気はない。

世間では普通のことなのかもしれない。人は変わっていく。中学高校時代ともなればなおさらだ。
彼女は変わった。姉さんも変わった。……そして他人から見たら、きっと僕だって変わったに違いないのだ。
ただそれでも僕は、今でも彼女のことを昔と同じように“あず”と呼ぶ。
いつの日かもう一度、くだけた笑顔で、“お兄ちゃん”と返事してくれる日が来るようにと。
願いを込めて。

………
……


「でも、秋人さんがご自宅で勉強できないなんて珍しいですね。どうかしたんですか?」
ふいをつかれた。

家を出る時から、ずっと纏わり付いている苛つき。
僕の背中にひっそり寄り添ってくる、得体の知れない不安感。
決して重いものではない。でも喉に刺さった魚の小骨のように、僕の意識を喚起してやまない『ソレ』

「それになんだか、先程からご機嫌斜めのように見えますが……」
……やっぱり顔に出てしまったか。
無意識に、手で顔をさすってしまう。

「あ……ごめんなさい。別に詮索するつもりじゃ……。ごめんなさい……」
恐縮してサッと距離を置こうとする梓に、再び寂しさがこみあげる。
せっかく梓が僕に向けてくれた気遣い。それが離れていくのを引き止めるような気分で、口を開いていた。

「ちょっと前に電話がかかってきて、さ」
「……はぁ」
「姉さんが電話に出た後、急に出かけろ出かけろと騒ぎ出して」
「はい」
「家で課題をこなしたいって言っても駄目だって、追い出されたんだ。それだけ」
「ふうん」

……なんだ。口に出してしまえば、トンでもなく些細なことじゃないか。
『姉さんに都合があって家を追い出された』――ただそれだけのことだ。
冷静に客観的に考えれてみれば、こんなことに拗ねて苛々していたなんてどうかしていると思う。
妹のような年下の女の子の前で、みっともない……。
でも、梓に話してみて良かったな。なんかスッとした。
家を出た時よりも透き通った空気が、肺を満たし始めていた。



「秋人さん、可哀想ですねェ」

……………………あれ? 
そこだけ微妙に台本を間違えたんじゃないかと、脚本家に文句をつけたくなるようなちょっとした違和感。
だってそこは、『子供ですねー』とか『甘えん坊ですねー』とか、その辺の台詞の出番じゃん?
思わず「NGかい?」と軽口を叩いてしまいそうな。
だから僕は、梓を振り返って――


――梓が、じっと、僕の横顔を見つめていて。

僕の表情の筋繊維、一本一本を取り出して吟味しているかのように。じっと。見つめていて。
その黒い瞳の深みに飲み込まれ、沈み、浮かんでは溺れていくような。
霧散しかけた不安の粒子が、再び心に淀んだ沈殿物を形作ろうとしていた。
万物が色彩を失い、灰色の世界で梓と僕の二人だけが息づいているような錯覚を覚える。
フッと。

空気が変わっていた。


「亜由美さん、花の女子大生ですから」
梓が、宙を仰ぐ。
彼女の瞳から解放されたのか、捕獲されたのか、覚束ない奇妙な浮遊感。

「どういう……ことだよ?」
「そういうことですよ。……秋人さんには、忘れがちなのかもしれませんが」
不安の溜まった心の容器を攪拌されたような気がして、カチンときた。

「……あずは、何が言いたいんだ?」
「ご自分でも分かっているのに、どうして私に聞くんです?」
梓が微笑む。灰色の世界のそこだけに色鮮やかな花が咲いた、眩しすぎる美しさ。

「秋人さんの方が私なんかより、ずっと一緒に亜由美さんといるんでしょう?」
「そりゃあ……。でもだからって姉さんのこと、全部分かるわけじゃ……」
「そうですよね。分かりませんよね」

くすくすくす。慎ましさと艶やかさの絵の具で塗った、梓の笑み。
僕は何が分かっていなくて、何が分かっているんだ……?
……あれ? 梓の言っていること矛盾してないか? いや、僕が混乱しているのか?
それに目の前の少女は、誰だ? ……梓か? 僕のあずって、こんな目をする子……?
ぐるん、ぐるん、ぐるん、ぐるん。灰色の世界が回っているような、心の困惑。
ええと、ええと。それより僕らは一体、何の話しをしていたんだっけ?

「どうして亜由美さんが、秋人さんを邪魔者に扱ったか。ではなかったですか?」
そう、それだ。どうしてだろう。

「秋人さんは、どう思っているのですか?」
だから分からないよ、そんなの。
ただきっと、誰かが家に来るから、それでかな……と思って……。

「そうかもしれませんね」
梓の囁きが、耳元でそよ風になる。

「……そうですよ。きっと」
甘い吐息に、かぐわしい音色に、そっと眩暈がする。酔いしれる。

「誰かが来るから、あれだけ仲の良かった弟を追い出した。……そういうことなんですね? 
 ……でしたらそれはきっと、凄く大切なヒトなんでしょうねぇ」
すごく……。
そうだ。ぼくより……たいせつなぐらいだから……。
ぼくより……ずっと……。

「どんなヒトなんでしょうね? 私も気になっちゃいます」
囁き。囁き。囁き。囁き。渦巻く。
わからないよ……そんなの。僕には分からない……。

「そうですよね。分かりませんよね」
くすくすくす。梓の台詞。さもおかしそうな、あずの微笑み。
あれ、さっきと同じ? また僕の頭の中が回ってる? 
全身にじわじわと染みわたる不安感、気だるささえ感じる。

「姉弟には……見せられないものだってありますから。教えられないことだってありますからね」
そ、そんなこと……ないよ。
僕は、僕らは、二人で支えあって、今までもずっと、これからも。

「姉弟だって、いつも一緒にいられるわけじゃありませんし」
違う、そんなことない……、今までだって、ずっと一緒だったんだ僕らは……。

「『血の繋がった』姉弟なら、いつまでも一緒にはいられませんし」
そんなことないッ……!
そんなこと……そんなこと関係ないッ!!

「そうですか?」
姉弟だったらなおさら、血が繋がっているならなおさら、いつだって、いつまでだって、
僕らは一緒にあり続ける事ができるッ! 決まってるッ!!

「だから秋人さんには、分からないのではありませんか? 今、誰がお家に来ているかを」
だから、だから……僕にわからない……?
なぜ? ……きょうだいだから……?
またこんがらかってきた。僕は何がわからないんだ?
ぐるぐるぐるぐる。回る、まわる。頭が、せかいがまわる。

「亜由美さん、いつもお綺麗です」
そ……そうだ、そのとおりだ! それなら分かる! 
姉さんは綺麗で、スタイルも良くて、優しくて甲斐甲斐しくて、向日葵みたいな人で、だからっ! 
だから、
……ええと……だから……
だから、なんだったっけ……
あず? あず、おしえてよ、あず……。

「だから、『当然』なんですよ。当然、放っておかれませんよ」
そりゃあ……、そりゃあそうだ。
男なら、誰だって姉さんが気になるに違いない。好きになるに違いない。放っておけないよ。

「ほら。やっぱり秋人さんには、最初からご自分で分かっていたじゃないですか」
……何を……?

「誰がお家に来ているかを、ですよ。今、ご自分で口にしたじゃないですか?」

……おと……こ……?

「そうかもしれません」
あずの囁きが、そっと僕の言葉に絡みつく。それが、何故か、心地よくて。

「……そうですよ。きっと」
胸の奥に、燻っているナニかに、絡みつく。ここちいい。きもちいい……。

「でも仕方ないです、秋人さんは実の弟ですから。姉弟はずっと一緒にはいられませんから。
 秋人さんは何も悪くないんですよ。気に病む必要もないんですよ」
ぼくはきょうだいだから。血のつながったきょうだいだから。
ずっといっしょには……いられないから……。仕方ないんだ……どうしようもないんだ……。

「きっと、素敵な男性なんだろうなぁ」
……そうだ……わかってたはずだ……。
ねえさんはきれいだから、すごくすごく、すばらしい女性だから。
ねえさんとずっといっしょに、これからもずっといっしょにいるのは、素敵な男性なんだ……。

「うらやましいな」
あずが、そらをあおぐ。

ねえさんは、いまごろ。
いまごろ、ぼくのいない、いえで、
ねえさんを ソイツが


「亜由美さん、うらやましいなァ」
いつかみたような。たかく、たかく、でも、はいいろのそらを。

ねえさんに   ねえさんは
わらって……

……きょうだい……は……

ずっと……


―――
――


「秋人さん? 秋人さんっ!」

「……あ……? ……ぅ……ん」
気がつけば、喧騒。溢れる色彩。動き行く時間。
心配そうに、梓が僕の顔を覗き込んでいる。
梓と話しこんで、そのまま物思いに耽って、いったいどれだけの時間が経ったのだろうか……?
僕はバス停で、図書館行きのバスを待っていた。
気持ち悪い……。吐き気がしやがる……。

「顔色悪いですよ? あの、バスに乗れます?」
「大丈夫……。ごめん、気にしないで」
もうこれ以上、考え事をするのはやめよう……。
バスの中で、さっき食べたりんごを吐き出したら洒落にならない。

「課題をこなすだけなら図書館でなくとも出来ますけど……。ご気分が優れないのなら、私の家の方に来ます?」
「……ん、いや」
確かに、足を動かすのもなんだか億劫になってきた。わざわざ図書館に行く気力もない。
でも姉さんに図書館に行くと言って出てきた以上……その通りに行動した方が、いいのだろう。
予定を変えたのに連絡しないと、また後でうるさいし。
後ろポケットには携帯が入っていない。連絡を入れたくてもできないし……。

姉さんが
僕を
無理矢理追い出したから
持って出てこれなかったんだ。

あるはずのスペースに、あるべきものがない。
その気色悪い空虚感が、僕の神経を逆撫でする。煽り上げる。

なんだよ……
なんなんだよッ、これはッ! これはなんなんだよッ!!


――姉さんが……

姉さんがッ、自分でッ……!

姉さんがッ、いつも居場所を教えろと、自分で押し付けた物のくせにッ……!!




初夏の風。
舞い踊る梓の黒髪、僕の頬を撫でる。




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<5>










山本くんちの玄関には、お地蔵さんが祀ってある。


















お地蔵さんが口を開いた。

「秋くんがいつまでもグズグズ愚図愚図してるからぁぁぁあああああ!!」
失礼。お地蔵さんではなくて、どうやら硬直していた姉のようだ。

ここで状況を把握するために、十五分ほど前に時を遡ってみたい。
お地蔵さん、いや姉が、とある男性からの電話を受け取った時までだ。
『あ〜〜、亜由美ちゃん? 元気してるう? いやっはっは、ど〜も。え? おじさんの方かい? 
 おじさんはね〜先週のゴルフで腰痛めっちゃってさぁ。それよりも大学の方はどう?あ、そう。
 うん、おじさんも最近はろくに休みをとれなくて。うん、今も仕事中だよ。
 駅前の薬局の向かいの土地分かる?今大きなビルを建ててるでしょ? あれおじさんの担当なんだよ〜。 
 それで今ね、梓をそっちに行かせたから。携帯にかけて、帰りに寄って行けと言っといたんだけどね。
 そっちが二人とも留守だったらイカンなと思って。うん。都合が悪くないみたいでよかった。
 それより秋人くんはどう? 元気してる? また背が伸びただろうねぇ、もうおじさんより随分――
 ――どうしたの亜由美ちゃん? やっぱり今忙しかった? あ、そう、料理中なんだ。それじゃ切るね。
 梓の面倒みてやってね。うん。それじゃまたね亜由美ちゃん。はい。ごめんください〜』

はい、ストップ。


賢明なる諸兄ならば、もうお分かりであろう。
この姉、実にみっともない。みっともないことこの上ない。
さぁ、断罪しよう。

――この姉は、
――従妹の少女とほんのちょっと会わせるのが妬けるので、
――わざわざ弟の少年を引き離そうとしたのである。
しかも予想よりも早く現れた少女によって目論みは外れ、逆に連れ立って出て行かれてしまった。

嗚呼、なんとゆうくだらない理由。なんとゆうなさけない行動。なんとゆうふがいない結果。
だがここで、こんな消極的な手段に訴えたこの姉を、少しだけ弁護しておかなければならない。
なぜなら姉は、この少女がすこぶる苦手だったからである。


その昔。姉は少女を、妹としてたいそう可愛がっていた。
既に最愛の存在だった少年と、妹のような少女。幼き三人きょうだいによる仲良き日々だ。
そんなある日のこと、若き姉はふと思った。
――いとこ同士って、結婚できるよねぇ――
姉がひとつの危惧を抱き始めた頃には、もう既に手遅れだったのかもしれない。
幼い少女が少年を見つめる瞳の奥に、身に覚えのありすぎる光が宿り始めていたからである。
疑いを持って観察してみると、今まで気づかなかったのが情けなくなる程、少女の行動は露骨だった。

  朝起きると、泊まりに来てた少女が少年のベッドに潜り込んでいる。
  意味が分かっているのか分かっていないのか、太腿を少年の腰に擦りつけながら。
  半分飲みかけのマグカップを、少年のものとこっそりすり替えている。
  気がつけば、少年が脱ぎ捨てたシャツを着ている。
  少年が入浴中の浴室に、すっぽんぽんで飛び込んでいく。  
 
幼さゆえの無垢でもって、禁断の行いを軽々と遂行していく従妹。
姉の心の中でドス黒い奔流がそろそろ決壊しようとしていた頃、事態はさらに風雲急を告げる。
……両親の海外出張決定である。
恐るべきことに「少年と少女と姉、三人が一つ屋根の下で暮らす」という状況が強要されようとしていた。
姉は抵抗した。全身全霊、もてる力の全てを賭けて抵抗した。
その結果、至福とも言える今の「愛する弟と二人っきりの生活」を手に入れたわけである。

……
その後、少女は変わってしまうことになる。
少なくとも表面上は、まるで少年に興味がないような態度だ。
だからであろうか。姉は少女に対して、なんとなく後ろめたさみたいなものを感じている。
できれば顔を会わせたくない。

そして少年の方も問題だ。明らかに彼は、冷たくなってしまった従妹に寂寥感を抱いている。
姉の嫉妬心を煽っている事も知らず、従妹にアレコレと構おうとする。気遣おうとする。部屋に上げようとする。
少女の方にその気がないとしても、少年の方がオオカミさんになる可能性だって捨てきれないのだ。
できれば少年とも会わせたくない。

しかし今の極楽生活を続けるためには、彼女の来訪だけは受け入れざるを得ないのだ。
少年の保護者である叔父の手前、少女とも昔ながらの仲良しであることをアピールしなければならない。
さっさと追い払えば良い、よその泥棒猫とは違う。
姉は今でも、この少女が苦手だった。
………
……


さて、そろそろ現在の姉の様子を見てみよう。
姉は揉み手で果物ナイフをもて遊びながら、リビングをうろうろうろうろ歩き回っている。
……なぜ果物ナイフを握っているのだろうか、我々にはその理由を推し量ることはできない。
どうやら今日はそうするのがお気に入りなのだ、安心できるのだ――そういうことにしておこう。

不機嫌そうである、傍目にも不機嫌そうである。
苛立たしげに髪の毛を掻き毟りながら、コツコツとナイフで壁を叩く姉。
だいたい欲張らずに少女を家に上げておけば、一時間かそこらで帰っていったはずなのだ。
仮に少年が部屋へ連れ込んだとしても、必殺のお茶&お茶菓子攻撃で乱入することは可能だった。
それなのに余計なことをしたから……。自業自得。後悔先にたたず。

おっと、なにやらブツブツと呟き始めた。
――図書館まで片道二十分、往復四十分。あとは宿題とやらを片付けるのにどれぐらいかかるのかしら。
――秋くんはかしこいから三十分もあれば充分かな。合計七十分……長いッ! 六十分が限度だ! 
――……一時間あれば帰ってこれるかなぁ。一時間……そうだよねぇ。それ以上一緒にいたら、もう浮気だよ。
――梓ちゃんだっていつも一時間くらいで帰るんだから。

自分に都合よく状況を解釈し、自分に都合よく条件を作り上げていくことは、この女性の得意技であった。
しかし今の彼女にとっては、脳内で大幅に短縮されたその一時間でさえ待つことは苦痛だ。

例えばラブホテルの看板。ご休憩は普通二時間だ。
彼女が大切なものを少年に優しく引き裂いてもらうその日には、最低でも四回はして貰うつもりでいる。
つまり半分の一時間あれば、二回は中に出して貰えそうである。彼女の脳内ではそう計算されている。
二回だ! 二回も膣内射精されれば、周期さえ合えばすぐにも孕めそうである!
双子だったら一躍二児の母親だ!

翻って、仲良く肩を並べて出て行った少年と少女のことを考えてみる。
そのまま寄り添うように、びらびらビニールのついたお城のような建物の入り口へと消えて行く二人。
部屋の向こうから聞こえてくるシャワーの音と、そわそわ何度もベッドに座りなおす少年。
俯き加減にバスローブ巻いて出てきたしなやかな肩。そっと手が添えられて。
少年の唇が、首筋に、鎖骨に、双丘の頂きに、そして茂みに
漲った少年があてがわれ、シーツを噛みしめた少女の口から悲痛とも歓喜ともいえる――
―――
――


山本くんちのリビングルームに、顔色真っ青の陰気なお地蔵さんが祀ってある。
弟の結婚式場へ包丁片手に駆けつけるところまで想像して、お地蔵さんは我に返った。
ぶんぶんぶんと頭を振る。随分と最低最悪な妄想をしてしまったお地蔵さんだ。
そんなことあるはずがない。
少年に限って、そんなことあるはずがないのだ。もっと彼を信用しなければ。

置時計はもう三時を指している。
イケナイ妄想をしている間にも、悪魔の一時間は過ぎてしまったようだ。
それを確認した姉は一転、ほころぶように顔を輝かせる。もうすぐ帰ってくる。もうすぐ少年が帰ってくる。
弟の帰宅を迎える時、姉はいつだって幸せなのだ。

――とびっきりの笑顔で、おかえりを言ってあげようかな。

「玄関 あけたら 二分で お姉ちゃん」 

――ううん、二分もいらない。二秒でお姉ちゃん。
――そのままいただきますしてくれても、いいんだよ?
ふん、ふん、ふん、と上機嫌で古いCMテーマをハミングしながら、玄関の方へと移動する。

――まだかな。まだかな。
―秋くん、まだ帰ってこないかな……

―かな…

………
……


三十分後。
山本くんちの玄関には、もはやお地蔵さんと囃す気にもなれない程、無残にしょぼくれた姉の姿があった。
少年が出て行ってからもう一時間半になる。つまり、少女と二人っきりにしてから一時間半だ。
姉は心の中で断じた。これは重大な裏切り行為であると。

ぷりぷりしながら携帯を取り出した。
待ち受け画像は――当然少年の笑顔の写真。

「うぅ……」

――秋くんはずるいよ……。
――ずるいよ……。そんな顔されたら、お姉ちゃん……
――お姉ちゃん、怒っているんだから……

ちゅ

目を閉じて、大事な宝石にするように、そっと口付けする。

嗚呼、寂しくてしょうがない。まるでもう半日も会っていないかのような錯覚。
メールを出そう。さりげなくメールを出して、早く帰ってくるよう催促しよう。
『そろそろ帰ってくる?』『はやく帰ってきてよ』『そばにいてよ』……こんなフレーズが真っ先に頭に浮かんだ。

――あぁ、でも駄目……そんなの。
――そんなあからさまにおねだりしては、お姉ちゃんとしてはしたない……。

外にお仕事に出た旦那様を、じっと耐えて待つのも妻のつとめ。姉だってそう変わるものではない。
……なんだかよく分からないが、彼女の中では姉としてそういう倫理観が重要みたいだった。
ひとしきり頭を捻った後、にっこり微笑んで携帯を操り始める姉。
弟へのメールを考える時、姉はいつだって幸せなのだ。

『2006/05/20 15:36 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん、今日のお夕飯何がいいかな――』
メール、送信。

――うん、完璧だっ。

我々にはどうしようもなく平凡な一文に見える。しかし姉にとっては細部まで吟味されつくした文面なのだ。
少年の食欲を刺激して家を恋しくさせるキーワードに加え、お姉ちゃんらしい家庭的な側面をアピール。
これらをバランスよく配合したメールなのだ。これならば、お姉ちゃんとして恥ずかしくないメールである。

――まだかな、お返事まだかな。

さっきすぐに帰ってきていれば、夕飯は少年の好物の茶碗蒸しにするつもりだった。
今でも少年がおねだりしてくれば、作ってあげるのに吝かではない。
……ただし少年の茶碗蒸しにはちょっぴり、いやたっぷり、お姉ちゃんの唾を落しちゃうつもりでいる。
間接キスだ。

――まだ、かな


……
………五分過ぎた。
十分過ぎた。
返事はこない。

――……おかしいな、秋くん。気がつかなかったのかな。

想いが通じないと余計に寂しさが募るもの。
左手小指第二間接を切なげに甘噛みしながら、携帯をぽち、ぽち、ぽち、と。

――秋くんがイケナイんだからね? 秋くんがお姉ちゃんをさみしがらせるからだよ……。

『2006/05/20 15:49 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん、そろそろ帰ってくる?――』
メール、送信。

――出しちゃった……。言っちゃった……。
――秋くんが、こんなはしたないお姉ちゃんにしたんだから……。
――秋くんはちゃんと責任取らないと……だめなんだよ……?

自分に浸って、長い睫毛を伏せる姉だ。


……
………そして、三分が過ぎた。
五分が過ぎた。
返事はやっぱりこない。

――ん、おかしいなぁ……。

配信ミスだろうか? 図書館は電波が弱いのだろうか? これだからこの携帯会社は困る。
見えない何かにぷんすかしながらもう一度、やや乱暴に同じ文面をぽち、ぽち、ぽち。

『2006/05/20 15:57 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん、そろそろ帰ってくる?――』
メール、送信。

三分経過。
反応なし。

――図書館だから自粛してるのかな?

しかし三回もメールを入れたのに、少年が反応しないのは珍しい。
姉の記憶内のデータを検索しても、そこまで無視されたのは体育の授業とテスト中の時ぐらいしか思い出せなかった。
今だってちゃんと、バイブモードにして身につけてくれているはずなのだ。姉の言いつけを守って。

『2006/05/20 16:03 From 亜由美 To 秋人 ――ねぇ、秋くん――』
メール、送信。
そろそろ不安になってきたのだろうか。指が汗ばんでボタンの上で滑る。

一分経過。
音沙汰なし。

――秋くんッ!

番号呼び出し、コール、コール、コール、コール……出ない。
もう一度呼び出し、コール、コール、コール、コール……出ない。

『2006/05/20 16:09 From 亜由美 To 秋人 ――秋くんなにやっているの?――』
『2006/05/20 16:11 From 亜由美 To 秋人 ――もう帰り道なんだよね?――』
『2006/05/20 16:13 From 亜由美 To 秋人 ――バスが止まっているのかな。渋滞?――』
番号呼び出し、コール、コール、コール、コール。
返事なし。

――どうしよう、どうしよう、どうすればいい? 

『2006/05/20 16:19 ――変な人が家に来て、消火器買ってくれってしつこい。こわい――』
『2006/05/20 16:21 ――秋くんたすけて!――』
『2006/05/20 16:22 ――こわいから助けてよ!!――』
『2006/05/20 16:23 ――秋くん!――』
返事、なし。

――やだ……

『2006/05/20 16:24 ――秋くん!!――』
返事、なし。

まぶたが熱い。
息がつまる。
視界がぼやけてる。
意識の果てで、生々しい極彩色を撒き散らしながら、さっき妄想した少年と少女の結合シーンが何度もリプレイされる。


――やだよ……

やだよ……
やだよお……そんなの、そんなの……
……そんなの!! いやだッ!!

そんなのぜったいにいやだッ! 
秋くんはわたしとずっと一緒にいるんだよ!? 
死ぬまでずっと、ううん、死んでからもずっと一緒にいなきゃいけないんだよ!?
秋くんはわたしのものなのに!! わたしのものなのに!! わたしだけのものなのにッ!!
盗ったんだ! やっぱりあの娘が盗ったんだ! ううん、誰だっていいッ! 
梓だろうが藤原の売女だろうがよその雌猫だろうがどうでもいいッ!!
秋くんを盗った! わたしのものなのに盗った!! 誰かが秋くんを盗ったッ!! 
ゆるせない! そんなの許せない!! 許さないッ!!
そばにいてくれなきゃいやだ! いつも繋がってなきゃいやだッ! 
いつもわたしのこと考えてくれなきゃいやだ! いつもわたしのこと想ってくれなきゃいやだッ! 
わたしのことだけを想ってくれなきゃいやだ! わたしだけに優しくしてくれなきゃいやだッ!
わたし以外のこと考えないで! わたし以外の子と喋らないで! 近寄らないで! 見ないで!
お姉ちゃんだけを見てよッ!!  

お姉ちゃんだけのそばにいてよッ!!


お姉ちゃんだけを、愛してよッ!!!!


『2006/05/20 16:28 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん――』
『2006/05/20 16:28 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん――』
『2006/05/20 16:29 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん――』
『2006/05/20 16:30 From 亜由美 To 秋人 ――ねえ秋くん――』
番号呼び出し、コール、コール、コール
『2006/05/20 16:33 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさない――』
『2006/05/20 16:34 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさなあ――』
『2006/05/20 16:35 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさないから――』
『2006/05/20 16:35 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさないから――』
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
『2006/05/20 16:39 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん秋くん秋くん――』
『2006/05/20 16:40 From 亜由美 To 秋人 ――もう死ぬから――』
『2006/05/20 16:40 From 亜由美 To 秋人 ――お姉ちゃん死んでやるから!――』
『2006/05/20 16:41 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん!――』
『2006/05/20 16:41 From 亜由美 To 秋人 ――本当にもう知らないんだから!――』
『2006/05/20 16:42 From 亜由美 To 秋人 ――もう駄目だよう…――』
『2006/05/20 16:42 From 亜由美 To 秋人 ――返事してよう…――』
『2006/05/20 16:42 From 亜由美 To 秋人 ――いじわるしないでよう…――』
『2006/05/20 16:43 From 亜由美 To 秋人 ――お願い…――』
『2006/05/20 16:44 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん秋くん秋くん秋くん秋くん秋くん秋くん――』
『2006/05/20 16:45 From 亜由美 To 秋人 ――ころしてやるから――』
『2006/05/20 16:45 From 亜由美 To 秋人 ――でないと みんな ころしてやるから――』
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
『2006/05/20 16:49 From 亜由美 To 秋人 ――あは――』
『2006/05/20 16:51 From 亜由美 To 秋人 ――あははははははははははははは――』
『2006/05/20 16:52 From 亜由美 To 秋人 ――う         ――』
『2006/05/20 16:54 From 亜由美 To 秋人 ――あきくんきらい――』
『2006/05/20 16:55 From 亜由美 To 秋人 ――ひつ        ――』
『2006/05/20 16:56 From 亜由美 To 秋人 ――あきと――』
『2006/05/20 16:59 From 亜由美 To 秋人 ――あきくん あきと――』
『2006/05/20 17:03 From 亜由美 To 秋人 ――おい で――』
『2006/05/20 17:06 From 亜由美 To 秋人 ――…………――』
『2006/05/20 17:07 From 亜由美 To 秋人 ――あきくん だいすき――』
『2006/05/20 17:09 From 亜由美 To 秋人 ――大好き、だよ?――』
『2006/05/20 17:11 From 亜由美 To 秋人 ――だい すき――』
番号呼び出し、コール、コール、コール、コール、コール……

返事 なし


……かたん

酷使され続けた携帯が手の平から零れて、自由落下にその身を委ねる。

……ずるずるずる……ぺたん。

溢れ出す絶望を支えきれなくなった両脚が、崩れ落ちる。力なく座り込む。


「捨て……られた……」
ぽたり、ぽたり、床に大きな水溜りを作っていく。

「……秋くんに……見捨てられた……」
静まり返った山本家の廊下に、低い嗚咽だけが響き渡る。

「……私を……見捨てた……」
両手の中には、果物ナイフ。
いつの間にかフタの外れた、果物ナイフ。

姉のなきべそ顔が映りこんだ、ぎらぎらひかるナイフ。

吸い込まれるように。
惹き付けられるように。

大きく見開いた姉の瞳から、少しずつ少しずつ、潮が引くように涙が乾いていく。
表情から絶望が消え……ただただ乾いていく。乾いていく。
他に名称も形容もない、何もない、ただ美しい、乾いたかお。



姉は、じっと、ナイフに、魅入っていた。








ところでここは、すぐ真上にある少年の部屋。
「着信有り 11件 未読メール有り 46件」と表示された携帯電話が転がっている。




△MENUパネルへ


<6>


胸が高鳴る。
声が、震える。
わたしのための、その背中に。

「山本くんっ!」
「ふ、藤原さん?!」

―――
――


   今は長き恨みもはればれとなりぬる事の喜しく侍り。
   逢ふを待つ間に恋ひ死なんは人しらぬ恨みなるべしと。
   又よよと泣くを。夜こそ短きにといひなぐさめてともに臥ぬ。


ええと、『今はもう長い恨みも、』はればれとなりぬる……『晴れた』『ことが嬉しいです』
『逢うのを待つあいだに』……ん〜……『恋い慕って死ぬのは』 人しらぬ恨み――あ、註がついてる。
「ひたすらに待ち続ける女心を知ってくれない、想い人の無情への恨み」
そういう恨みに『なるというものです』 『またよよと泣く。夜は短いと慰めて、』
臥ぬ……。臥ぬ?

「ちぃちゃん、辞書かして」
「ごめん、電子の方はアタシが使ってる」
「里香ちゃん、そっち終わった〜?」
「半分くらい……。なんかもう、文法とか超適当……」

はう〜。
なんとか火曜までには終わりそうかなぁ、こりゃ。
古文の加藤先生が、週末になって急に「和訳二十ページ」なんて大型宿題を出してくれるから。
休日だというのに友達三人で図書館へ繰り出して、朝から缶詰状態。
うちのクラスみんな、今頃ひーこら言いながら同じことしてるんだろうなぁ……。
はう〜。

……。
あれ?
あそこに居るのって……。
似てるけど、でも……。

もしそうだったら――そんなことを考えただけで、心臓がタップダンスを踊りだす。
……うぅ、わたしったら、彼のこといつもかんがえすぎなのかなぁ。
でも、でも、似てる、よねぇ……?

め、めがねめがね。
普段は恥ずかしいからかけないけど、緊急事態だから仕方ない。
えっとぉ、どれどれ……。

「……ねぇ。アレって、うちのクラスの山本?」
う。まー子めざとい。ちょっとムカ。

「あ、山本くんだねぇ」
うん、そう! 山本くんだよう!
どうしようどうしよう、まさかこんなところで偶然なんて。
うぅ、至福姿、じゃない、私服姿なんて初めて見たよう……。
あ、会えないと思ってた日に会えちゃうと、なんか、こう、余計に……。

「リカー?」
「………ど、ど、どうしよう、わたし、どうしよう……」
「里香ちゃん?」
「……や、やまもとくんだよう……」
「あんた何動揺してんのよ」
「……はうぅ……」
そ、そんなこと言ったってぇ。意識しちゃうよう……。
はう〜。会えると分かってたら、ミニスカート穿いてきたのになぁ……。
折角だから、折角だから、一緒に勉強したいなぁ……。
あ、わ、わ、めがねはずさないと、あわわ。

「山本ねぇ〜……。
 目立たないというか昼行灯というか、あたしにゃイマイチ印象の薄い奴なんだけどねぇ。
 ……………わ、わかった。わかったからそんな顔で睨むなって」

まー子には分かんないだよ、山本くんのいいとこ! 
……でも教えてあげないもん。
他の子はずっとずっと、山本くんのいいところに気づかないままでいいんだから。

「じゃあ、三人で山本くんの所へ行ってみる? 里香ちゃん?」
「……」
さんにんかぁ。
うぅ、どうしようかな……。 
でもまぁ、

この三人なら私が引き立つからいいけど。



「それとも一人で行く? いいよ、アタシらは」
「……」
が、がんばろうかな、かな。
うん、せっかくの神様がくれた偶然だもん。
それに、山本くんとお話し、したいし。えへ。

「んじゃ、頑張れ。アタシらはアタシらでキリついたら帰るから」
「里香ちゃん、ふぁいと〜」
うん、ありがとっ

「エロイことすんなよ〜」
し・ま・せ・ん! 
まー子ってば、そういう下世話なことばっか言うんだからっ。
ほんとに、もう、

だから男に相手にされないんだよ。


――
―――

「山本くんっ!」
「ふ、藤原さん!?」

駆け足してきたわけでもないのに、心臓がしきりと酸素を要求している。
喉元で交通渋滞でも発生したみたいに、言葉がつかえて出てこない。
はうぅ、毎日顔を会わせているはずなのになんでこんなに緊張してんのー。

「こんなとこで奇遇じゃ〜ん。あ、藤原さんもひょっとして、これ?」
山本くんが手元を開いて、まだまだ真っ白なノートと古文のテキストを晒す。
オーバーヒート中の顔面を扇ぎ冷ますように、コクコクと頷いてみせた。
やあぁ、わたしなに泣きそうになってるんだよう……。
やんやん、山本くん、休日だからってそんなにじろじろ見つめないでぇ。
……ぬ、ぬ、ぬれちゃう……よ……。

……え?
山本くんじゃない? はぁ。
でもなんか、ねっとりとした視線を感じちゃってますけど……。

落ち着いて見渡せば、山本くんの隣りの席で本を読んでいた女の子が、顔を上げてこっちを見ている。
……うわすごい、女学院の子だ。上着脱いでるしベレー帽も被ってないから、わかんなかった。
すごーい、綺麗な子ー。

……。

だ、だからなんなんですかぁ……?
さっきからその視線、痛いです……。
へんな子だよう。あ、あっちいってくださいっ!


や、山本くぅん……。

「え? あぁ、彼女は僕の父方の従妹で、山本梓。あず、僕のクラスメートだよ」
「……こんにちわ」

……なんだ、知り合いだったのかぁ。従妹……ねぇ。
でもでも、山本くんの親戚なら、仲良くなって欲しいかな。欲しいかな。

「はじめまして。藤原里香です」
えへ。

……。
………。
あのぉ……。
どうしてそんな目で、睨むんですかぁ……?

……。
なんだか……。
どこかで感じたことがあるよ、このめつき……。
うん、前に会った山本くんのお姉さんそっくり……。
はうぅ、親戚の人とは仲良くなりたいだけなのになぁ。
やだなぁ。
こーゆーの、やだな……。

山本くんの一族の女性って、こーゆー感じの人たちばっかりなのかなぁ……。
それでそれで親戚で法事があると、ぞろぞろ集まってくるとか……。
どうしようどうしよう。わたしうまく溶け込んで、一緒にお茶汲みとかできるのかなぁ、ちゃんと。
自信ないなぁ……。
……でもでも、がんばるもん。

あー! 山本くんのお母様まで、こーゆー感じだったらどうしよう?
いじめられて、お隣の奥さまに悪口流されて、秋茄子も食べさせてもらえないのかなぁ。
はうぅ……。
あ、でも、この子は父方の従妹だって言ってたなぁ。ひょっとしてお父様の血なのかな、こういうの。
……お父様の方なら……うん、なんとかできそう。
大丈夫、やれるよ里香、がんばろ。

……。
………あ。
え、えっとぉ、あずさ……さん?
……さ、さっきにも増して激しく睨まれると、わたしこわいんですけど……。あの……


や、山本くぅん……。

「……あ? はは……。梓はちょっと人見知りするタイプだから。でも悪い子じゃないから」
そそそ、と山本くんの背中に隠れちゃった私に、彼が小声で教えてくれた。
ふ〜ん、そうなんだ〜。
でもねでもね、

なにこのうざい女、キモっ

………
……

「ところで、ねぇ山本くん。宿題すすんでる……?」
ちょいちょい、と山本くんのシャツを引っ張る。
端っこをちょっぴりつまんで、俯き加減に、ほんの少しだけ縋るように引っ張るのがポイントだよ。

「いや、ご覧のとおり。最初の二ページしか終わっていない、このヤバさ」
あ、やっぱり。えへ。

「じゃ、いっしょにやろ? 二人でやれば早く片付くよ」
「えっ……と。でも」
むむむむ。
じゃあ、ちょっと胸元で手をもじもじさせて。上目遣いにして……こんな感じかな?
もう一声。

「……いっしょに、やろ?」
「あ、うん。別にいいよ」
うふふふ。可愛い。山本くんったら、押しに弱いから。
もう。そんなんじゃ、すぐに知らないオネーサンに連れて行かれちゃうなぁ。
……だからって、実のオネーサンに連れて行かれるのもイヤだけど。
ま、それはいいとして。

「あの、それでね、梓さん」
「…………私に、なにか?」
「あの、席……変わってもらえますかぁ……?」

……。
はい。そうです、貴女の座っている席のことですよぉ。
だって、山本くんは閲覧テーブルの端に座っているから、お隣りは貴女の席しかないんです。はい。
お隣りじゃないと、一緒に勉強できませんから。
それにわたし、学校でも山本くんの隣りの席だったりしますし……。えへ。

……。
………あ。
だ、だからそんなにこわいかおしないでください……。

あ、あの〜……。もしかして、おイヤですかぁ?
で、でも梓さん、見たところご本を読んでいるだけですし……。
だったらどこの席で読もうが一緒ですし……。
その、わたし達はノートの見せあいっこして頑張らないと、課題終わりそうにないし……。
………。


や、山本くぅん……。

「あ……はははは。あー、うん。じゃあ僕がそっち側の席に移るよ。
 あず、さっきから読書の邪魔してたみたいで、ごめんね。あずはそこで読んでてくれていいから」

わ〜い。山本くんが隣りにきた、きた! 
えへ、なんか学校にいる時と一緒だね。

まぁ、それにしても、

ほんっと気が利かないガキだな、こいつ!

………
……

「見て見て、じゃ〜ん! わたしもう『菊花の約』の方は訳し終わってるの。あとで写させてあげるよ」
「マ、マジっすかぁ!? ラッキー!」
「うん。だから残りの『浅茅が宿』の方を、がんばって訳そうね」
山本くんの教科書に、スッと鉛筆を伸ばす。
該当箇所はここから……………ここまで、だね。
……ついでに髪をサラリと揺らして、山本くんが吸う空気に匂いづけしておくのも忘れない。


   五更の空明けゆくころ、うつつなき心にもすずろに寒かりければ、
   ふすまかづかんと探る手に、何物にや、さやさやと音するに目覚めぬ。

「『五更の空が明ける頃、』うつつなし、うつつなし――『正気でない』……どういう意味だろね」
「……主格の人は寝てるみたいだから、『夢見心地にも、』って感じで良いんじゃ?」

集中している……。山本くん、集中している……。
無造作に投げ出されている、山本くんの左手。
はうっ はうっ はうぅぅ……好機ッ みっしょんすたーと!

――ええいっ!
ぺと。

1、偶然を装って手を重ねる。
2、三秒数える。
3、「きゃっ」と呟いて、添えた手を引き離す。
4、その手をグッと、切なげに胸元へ(グーで握り締め、小刻みに震えてたりするとポイント高し)
5、赤面しながら視線を逸らす(やや俯き加減だとさらにグッド)

1から5の作業を、鍛えられた軍人の如く正確無比かつ機械的にこなすわたし。
目線の流し方、脇の締め、顔色の調節……全てが山本くん好みに最適化されたもの。

……さて、山本くんは……。
よし、成功っ! わーい照れてる照れてる! わたわたしてるー! 
えへ。えへへへ。
そうだよね〜、そうだよね〜。わたしがこうやって乙女の恥らいを見せ付けている以上、
いくら鈍感星人の山本くんでも、わたしの「女の子」を意識しちゃうよね〜。えへへへ。

……だ、誰ですかぁ。今、「バカップルだ」なんて思ったのは?
い、いやですよ、カップルだなんて、そんな、本当のことを言っては……。

こんなノリでも、ばかにしちゃいけません。
クラスでは「おとなしい藤原さん」で通っているんですから、丁度いいんです。これが正解なんです。
山本くんはね、なんていうか、こーゆー中学生っぽいノリの方が安心できるみたいなの。
想い人の性癖にさりげなく合わせてあげるのが、賢妻良母というやつです。
……さらにぶっちゃけて言えば、彼の「雰囲気が読めない」という欠点も原因の一つ。
こういう分かりやすいお約束で攻めないと、コッチの気持ちを理解すらしてくれませんから。
だから反復継続して、わたしの「女の子」を意識させていく。これは一種の躾け、調教ですね。

と、ともかく、です。
こんなちょっとしたスキンシップでも、ですよ?
何度も何度も繰り返していけば、さすがの朴念仁さんでも心と身体がオープンになっていくものです。
手を握っている時間が三秒から三分、三十分、三時間、三日、三年と延長しても気にならなくなります。
やりますよ〜。
今日の帰りまでには、ドロドロになるまで男と女の体液(訳注:手汗)をねっとり絡め合うんです!
えへ。

次の一手は……そうだなぁ。
「二人が同時に辞書に手を伸ばす → 偶然手が重なっちゃって『きゃっ』」なんて流れが自然かな。
よ〜し、タイミングを合わせるぞ。
がんばろ、里香。ふぁいとっ、おー。

………
……


「すずろなりすずろなり――思いかけず。『思いもよらずに、寒かった、ので』かな」
「ふすまかづかんと探る手……? なんだろうねこれ。ふすま? 襖を閉めたってことかなぁ……」
「ん、ちょっと待ってて」

山本くんが――辞書に手を伸ばした! 
見えるッ! わたしにも、ちゃんすの神様の笑顔が見えるッ! 
え、ええいっ!



「布団のことです。秋人さん」



「ふ、ふすまは、布団のことです。夜具のことです。秋人さん」
………。
「かづくは『かぶる』です。カ行四段の未然形に、『ん』は推量・意志の助動詞『む』です」
………。
「ふ、『布団をかぶろうと探る手』です、秋人さん……」
……。

外 野 は す っ こ ん で ろ !


わ、わー、すごーい。
すごいねー、さすが女学院の生徒だねー
ねー、やまもとくーん?

「……がんばって、いっぱい努力してたんだね、あず」
ど、どうしてそんなに嬉しそうに、はにかむの……? 
わたしだって……。ねぇねぇ、山本くぅん……。

「………」
アンタの方はなんでそこでポーカーフェイスになるのよ。
これ見よがしにプイプイそっぽ向きやがって。わざとらしいんだよ馬鹿。
………あわ? あわわわ、いけない

つい本音が。


「あず……」
山本くんも、そこでそんなに寂しがらなくても……。

むぅぅぅぅ。
むーーーーーーーーぅぅぅぅうううううう!
なんですか、なんですか、なんですかぁ、この間合いはぁ!

ひょっとしてこれ、「つんでれ」……って奴ですかぁ?
ちょっと前のアキバ系ドラマでネタになっていた、あの……。
はうぅ……梓さんって、「つんでれ」キャラだったんですねぇ。
生でそんな人、初めて見ましたぁ〜。

――って、キモッー!
この女、キャラ作ってるよ恥ずッ!


………
……

    さりともと 思ふ心に はかられて 世にも今日まで 生ける命か

「『それにしてもと思う心に騙されて、今日まで生きてきた命のことよ』か。意味が分かりにくいな」

――トン。ころころころ……。
山本くんが考え込んでいる隙に、狙いあやまたず彼の足元に転がっていった消しゴム。

「ちょっと、ごめんね?」

襟首の準備をしっかりと整えておいてから、山本くんの足元に屈みこむ。よい……しょ。

……。
………どう?
……………ち、ちゃんと……見えた、かな?

えへ。えへへへへ、かわいいブラ、でしょ?
……ぜ、ぜんぶ……山本くんのためなんだよ……。
中も……見てみたい……?
…………………いいよ。……山本くんさえよければ、いつでもいいよ……。

ごめんね、山本くん……。
この程度しかしてあげられなくて、ごめんね……。
今日会えるって事前に分かっていたら、ミニスカート穿いてこれたのに。
そしたらもっと色んなコンボを使えたんだけど……こんなのでごめん……。
でもでも、まだまだ今日は閉館まで時間があるから、ね?
えーと、次の一手はぁ……。



「秋人さんッ!!」
「は、ハイ!」

「さっきから秋人さんに言いたかったことがあるんですけど」
「ど、どうしたの、あず? ……なにか……怒ってる?」
「図書館では、静粛にするのがマナーだと思います」
……………。

「そうやってくっつ――ンんッ、お喋りしながら勉強するのは、賢明ではないかと」
…………。
「わ、私は別に気にしないのですけど、周囲の方々の迷惑になるといけません」
………。
「気をつけた方がいいと思うんです」
……。


や、山本くぅん……。

「……そうだね」
山本くぅん……。

「ごめん。ちょっと無神経だった」
恥ずかしげに鼻をかきながら、申し訳なさそうにわたしを一瞥する山本くん。

……。
はうぅ。そ、そうだよねぇ……。
図書館のマナーは守らないと……。
ごめんなさい……梓さんの言う通りでした……。
あ〜あ……。わたし、山本くんに会えて浮かれてたのかなぁ。
ちょっと自己嫌悪……。



さて。
怒られちゃったから。


それじゃあ、思いっきり山本くんの方へ椅子を寄せて、っと。
自分の教材もずずずっと、山本くんの手元へ寄せて、っと。
ついでに山本くんにぴったり肩を寄せて、……ぴとっと。
これでいいかな、うん。

「ふ、藤原さん!?」
(しーっ。そうやってお喋りするの、まわりの迷惑になるよ)

かつてない程接近しちゃった山本くんに、そっと耳打ちする。
はうぅ。山本くんの耳たぶ、ぷにぷにしてて可愛いよう。
……あとで触らせてもらおうかなぁ。触らせてもらおっと。

(い、いやそうじゃなくて、どうして……)
(仕方ないよ。相談しながら勉強するなら、こうやって、小声で邪魔にならないようにしないと)
(……あ、そっか)
(うんっ、図書館のマナーだからね)

回りに聞こえないように耳打ちで内緒話しなきゃ、マナー違反だからね。
そのためには、ぴったりとたっぷりとどっぷりと寄り添っていなければ。
じゃあ、お勉強続けよ――


きゃん!

……あ、あのぉ、梓さぁん?
そ、そんな風に思いっ切り本を叩きつけると、わたしびっくりしちゃいます……。
それに、あの、図書館では静粛にするのがマナーだと思うんです、わたし。

………あ。
………。
あー、ははは……、えっとですねぇ。
差し出がましいかもしれませんけどぉ……。ちょっと「ソレ」は控えた方が……。
ですから「ソレ」を披露するのはやめておいた方が……。はい、そのお顔のことですよぉ。

あのですね、わたしを挟んですぐ隣りには、山本くんも居るわけ……なんですよ?
今の何と言いますかぁ、般若……のような形相には、千年の恋も冷めるというか……その……。
特に梓さんは、千年どころかほんの五分すらも、山本くんから恋されてないじゃないですかぁ?
ですからぁ……結構キッツイと思うんですよ、それ。他人事ながらイタイというか。
……せっかくのキャラ、壊れますよ? えへ。


きゃん!

あ、わ、わ、駄目ですよう、公共の本を乱暴に扱ったりしては……。図書館のマナーですよ?
大丈夫ですか? そんなに真っ赤になってぶるぶる震えてぇ、切羽つまったご様子で……
あ、お手洗いにでも行きたいんですかぁ?

………。

……ど、どうしたんですかぁ。
梓さんがさっきからなんだか変ですぅ……。
なんか……殺気立ってて、こわい……。


や、山本くぅん……。

「あのね、あず」
「な、なんですかっ? 秋人さんッ!」

「トイレなら、そこの社会科学Tの書棚を曲がった所にあるよ?」


……うんうん。
よかったですねー、
お手洗いの場所が分かって。

トイレで一人で自慰ってな
ば〜かっ!



え  へ  へ  へ。





△MENUパネルへ


<7>


閉館のベルが鳴った。
タイミングよく、コピー機が藤原さんのノートの最後の一ページを吐き出す。
時計は午後六時を指していた。

―――
――


そして今、僕らは三人で帰りのバスに揺られている。

――ごとん、ごとん、ごとん……

今日は結果的に、図書館に来て大正解だったと思う。
特に宿題の進捗具合が素晴らしかった。
「私も手伝います!」――途中からは梓までがそう宣言して、猛烈な勢いで残りを処理されてしまった。
未着手の前半部分については、藤原さんのノートをコピーさせて貰っている。あとは写すだけ。
つまりは、提出期限に間に合うかどうかの瀬戸際だったものが、あっけなく片付いてしまったわけで。
明日の夜には孝輔の奴が泣きついてくるだろうが、それまでには充分終わっていることだろう。
三人寄れば文殊の知恵というけど、人海戦術って無敵に素敵だ。
今日は図書館に来て良かった。
 
……。

そうだ……。そうなんだよ……。
僕は、良かったんだ。図書館に来て、良かったんだ。
藤原さんにも会えたし、久しぶりに梓と街を歩けたし、宿題だって終わらせた。
おい、いいことづくめじゃないか? 家になんか居なくて得をしたぞ、山本秋人よ。
そうだ。これでよかったんだ。
 
……そうだよ。
姉さんは、姉さん。
僕は、僕だ。
お互いどこで、誰と、どうしていようと……関係ない。
姉さんなんか……関係ないんだ。
 

バスがひとつ揺れる度に、僕はあの人の待つ家に近づいている。
 
分からない。
なんだかこのまま、家に帰りたくない。
あの家には、入りたくない。
帰るのが、こわい。


何かが、こぼれるから。
何かが、くずれるから。
何かを、すくいきれないから。
 
  
無機質なバスの揺れに、ほのかな吐き気を覚えていた。

―――
――


――ごとん、ごとん、ごとん…… 

土曜とはいえバスの本数自体が少ないので、この時間はかなり混んでいた。
だから目の前の二人掛けの座席に、女の子達をさっさと座らせている。
特に梓は、際立って人目を惹く容姿をしているからな。
これだけ混んでいる中で、痴漢みたいな奴に変な事をされては可哀想だ。
周囲にお年寄りもいないみたいだし。

――ごとん、ごとん、ごとん……

……。
……しかしまぁ、なんというか。
な、なんか、ちょっと静か……かな?
もうちょっとだけ賑やかでも、罰はあたらないような……。
さっきから僕も努力しているのだが、三人で会話が続かないのだ。

窓側に座った梓は、窓外に流れ行く電信柱をひたすら黙々と見つめ続けている。
……梓は本数を数えるのが楽しいみたいだ。
通路側に座った藤原さんは、斜め前方仰角三十度のバス路線図を淡々と眺め続けている。
……藤原さんは街の運輸システムに興味があるみたいだ。

それはいい。それはいいんだけどさ。
なにもめいめい別方向を向いて、押し黙らなくても。
もっとこう、会話とかさ……してもいいんじゃないかな?

座り方もそうだ。二人は異様に両端に詰めて座っている。
おかげで二人掛け座席のはずが、真ん中にもう一人座れそうなスペースが空いてしまった。
もっとゆったり座ればいいのになぁ……。

いや、待てよ?
僕を座らせるためにわざわざ空けてくれた、ということなのかな?
僕のことなんか気にしなくていいのになぁ。それよりなにか会話してよ、会話。

――ごとん、ごとん、ごとん……

女三人寄れば姦しいという。二人でもそれなりのものだろう。
だからこの二人にしても、何かの話題できゃいきゃい盛り上り始めるかと思っていたのだが……。
場が、すごく、重い。
そりゃ、二人で完全に別空間を作り始めてもらっても困る。
梓が子供の頃の僕の様子を嬉々として話し、藤原さんが学校での僕のありかたをにこやかに暴露する…
……そんなそら恐ろしい光景を期待するものでは、決してない。
しかしなぁ、もう少し和んでいても……。

――ごとん、ごとん、ごとん……

「藤原さんはさぁ」
とりあえず、手前にいる藤原さんに話しかけてみる。
「ん、なあに?」
「休みの日とかは、何してるの……、…………かな?」
くるりと振り向いた梓に見つめられて、語尾が尻つぼみになる。
「普通だよ。映画観たりとか、お菓子作ったりとか」
「お菓子かー、藤原さんらしいねー」
「そうでもないよ」
つきはなさなくても。
 
「あー、あずは今日は学校だったんだよねぇ? ど、どんな特別講義だったの……、…………かな?」
傍らから藤原さんに凝視されて、語尾が小声になる。
「医療関係の方々を招いて、職業体験の講演でした。私の高校は医学部希望者多いですから」
「そ、そっかー。あ、あずもお医者様になるのかなー?」
「いえ」
とりつくしまもない。
 
「やー、はっはっは……。ふ、二人とも、今日は疲れたよねー?」
「それほどでも」「別に」
「…………」

さっきから、万事がこの調子だ。
藤原さんに話しかけると、梓から無言のプレッシャーをかけられる。
梓に話題を振ると、藤原さんが顔を覗き込んでくる。
二人同時に話し掛けると、気だるい返事しか返ってこない。
……これでどうやって会話を続けろというのか?
僕は自分で思っている以上に、人とのコミュニケーションが苦手なのかな……。

はぁ……

――ごとん、ごとん、ガタンッ!!

うおっとっと……。
ぼけっとしながら吊り革にぶらさがっていたせいか、急激な横Gにバランスを奪われる。
よろけて後ろの人にぶつかった。

「あ、すいませ――





              ――」

「山本くん?」
え、あ? 
え、あ、え、えぇっと。
「……ご、ごめん。なんでも」
訝しげに振り返った藤原さんと、それを追い縋る梓の目線。
平然なる構えで、それらを迎え撃った。

――ごとん、ごとん、ごとん……

「藤原さんはさぁ」
とりあえず、手前にいる藤原さんに話しかけてみる。
「ん、なあに?」
「休みの日とかは、何してるの……、…………かな?」
くるりと振り向いた梓に見つめられて、語尾が尻つぼみになる。
「普通だよ。映画観たりとか、お菓子作ったりとか」
「お菓子かー、藤原さんらしいねー」
「そうでもないよ」
つきはなさなくても。
 
「あー、あずは今日は学校だったんだよねぇ? ど、どんな特別講義だったの……、…………かな?」
傍らから藤原さんに凝視されて、語尾が小声になる。
「医療関係の方々を招いて、職業体験の講演でした。私の高校は医学部希望者多いですから」
「そ、そっかー。あ、あずもお医者様になるのかなー?」
「いえ」
とりつくしまもない。
 
「やー、はっはっは……。ふ、二人とも、今日は疲れたよねー?」
「それほどでも」「別に」
「…………」

さっきから、万事がこの調子だ。
藤原さんに話しかけると、梓から無言のプレッシャーをかけられる。
梓に話題を振ると、藤原さんが顔を覗き込んでくる。
二人同時に話し掛けると、気だるい返事しか返ってこない。
……これでどうやって会話を続けろというのか?
僕は自分で思っている以上に、人とのコミュニケーションが苦手なのかな……。

はぁ……

――ごとん、ごとん、ガタンッ!!

うおっとっと……。
ぼけっとしながら吊り革にぶらさがっていたせいか、急激な横Gにバランスを奪われる。
よろけて後ろの人にぶつかった。

「あ、すいませ――





              ――」

「山本くん?」
え、あ? 
え、あ、え、えぇっと。
「……ご、ごめん。なんでも」
訝しげに振り返った藤原さんと、それを追い縋る梓の目線。
平然なる構えで、それらを迎え撃った。

そう。
なんにも、おかしいことは、ない。
ぜんぜん、これっぽっちも、ない。
まえみてすわってないと、おぎょうぎがわるいよ、ふたりとも。

――ごとん、ごとん、ごとん……
 
落ち着け。
落ち着くんだ。
冷静になれ。クールに。
そう、深呼吸をするんだ。

………。
 
振り向かないと。
確かめないと。

い、いや、振り向けない。

 
 
い、いつから……
 
 
いつから、そこにいたんだろう?


どうしてそこに、いるんだろう?


僕らがバスに乗り込んだ時には、確かにいなかったはずなのに。



この身長。
この服装。
この空気。

間違いない。
間違うはずがない。


僕の  後ろに  いた。


僕の  背後に  立ってる。











姉さんだ。

―――
――



姉さんだ。
 
いる。
すぐ真後ろに、いる。
ひっそりと、立っている。

 
振り向かなくては。
把握しなくては。現実を。
 
ぎっ、ぎっ、ぎっ
まるで頚骨がオイル切れを起こしたように、ぎこちなく背後を覗き見る。

――ああ
姉さんだ。確かに姉さんだ。

じっと俯いたままだ。
何かブツブツ呟いている。
陰になって、その表情が伺えない。
何を言っているのかよく聞こえない。

姉さんのブラウスの襟元が、どういうわけかびっしょりと濡れている。
やばい。
なにかやばい。


「どうかしましたか、秋人さん?」
「なんでも!」
咄嗟に姉さんを庇うように胸を張った。
顔面神経に向って『えがお』と命令文を連打する。
今のただならぬオーラを発する姉さん、これ以上人の目に晒すべきではない。
特にこの二人に知れたら、なんか分からないけどとんでもないことが起こる気がする。
――理性と本能が珍しく全会一致で、そう結論を下したのだ。
背骨と両胸をぐっと反らし、背中から姉さんに覆いかぶさるようにして胸を張る。
きつい。
この体勢きつい。


後ろ手で姉さんを引き寄せようとして、後ずさった拍子に何か柔らかいものを踏みつけた。
……姉さんの素足だった。
靴を履いていない。
 
額からじっとりと噴き出してくる汗が、前髪を張り付かせる。
とてもやばい。
とてつもなくやばい。

何があったんだよ、姉さん……。
一体、どうしちゃったんだよ……。
可哀想に、姉さんの小さな肩がふるふると震えている。
こんな姉さんはとても見ていられないよ……。
………あれ? 
胸に抱えるようにして、両手で何かを握り締めている。
なんだろう?


昼間の果物ナイフだった。
 
泣きたくなった。



ああぁあっ!? やめてよ姉さんッ! やめてそれ以上抜かないでッ!! 
抜いちゃ駄目!! 閉めて! しめてしめてそのままフタ閉めて!!
こんな満員バスの中で白刃煌めかせたら、洒落になんないって! 捕まっちゃうって!ホント!!
無意識に覆い隠そうとして、ほとんど海老反り状態になってしまった。
隣の人が不審な目で睨んできたが、もう気にしていられない。

ちょっと涙が出た。
 

(「……ゆ………さ……な………」)
姉さんの呟きが、ひと際はっきりと聞こえた。
でも梓達二人の監視の目があるから、大っぴらには話しかけられないんだ。
ええと、なんだい……?
(「……ゆる……さ……ない……」)
ええい、このバス駆動がうるさいなぁ! 聞こえないじゃないかっ!
(「……ゆる………………い……」)
ゆ る い ?
 
ナイフのフタが緩いのかな? 
だから抜けちゃったの? 
納得だけど、そんなものを一日中いじくってるからだよ……。

(「……うぅ………ひっく……ぐすッ……ひ……っく……」)
ね、姉さん……。
……な、泣かないでよ……。
お願いだよ、泣かないでくれよ……。
背中からくぐもった嗚咽が漏れ聞こえてきて、行き場のないやるせなさを持て余してしまう。
 
 
いったい何があったんだよ、姉さん。
どうしてそんなことになっているんだよ。
僕のいない間に、何が…………

僕の……
いない……?

…………。

そうだ。僕のいない間なんだ。
僕のいない間に、姉さんの身に何かが起こったんだ。
脳裏に閃光が走る。耳元に蘇る、あの時の梓の言葉。
     ―――――『きっと、素敵な男性なんだろうなぁ』―――――

……そいつだ。
……その男だ。
……僕がいない間に、家に来た男だ。
 
姉さんを……。姉さんを……そいつが……。
 
 
瞬時、沸点を越えた。
背筋を駆けぬけた激流が、全身の毛を逆立たせる。細胞が煮え滾る。紅い鼓動を漲らせる。
バスの中が捩れて歪む。うねり狂った瞼の裏で、何度も何度も閃光が瞬く。破裂する。
 
よくも……
よくも! よくも!! よくもッ!!! よくも姉さんをッ!!!
僕の大切な、大切な姉さんを、よくも傷つけやがってッ!!!!!!
あんなに朗らかな姉さんを……お日様みたいに……優しく笑ってた姉さんを……こんな……こんな……。
こんなになるまで……弄びやがって……。
糞っタレがぁッ!!!!
畜生、畜生ッ、畜生ッ!畜生ッ!! 畜生ッ!!! 畜生ッ!!!!
ゆるさない、オレは、絶対に、絶対に許さないッ!!! 許さないッ!!!
 
どこのどいつだ……。                     
 
どいつが、姉さんを傷つけたんだよッ!!      (←←←←←)
どいつが、姉さんをこんな姿にしたんだよッ!!   (←←←←←)
いったいどこのどいつだよッ!!          (←←←←←)
 
殺してやる……!
ブチ殺してやるッ!!!
「や、山本……くん?」
みつけだして、叩き殺してやるッ!!!
「やまもとくんッ!!」
 
目の前に、酷く怯えた藤原さんの顔があって。
あれだけ渦を巻いて捻じ曲がっていた世界が、あっけないほど整然と物理法則に従い始めた。
ありきたりな市内バスの風景。眠気を誘うほど緩慢に響いてくるバスの振動。
今まで煮え滾っていたマグマが、急激に冷え固まっていく。
ずっと握り締めていた拳を開く。青白くなっていて、痛い。
 
思わず顔をさする。僕は一体、どんな表情をしていたことやら。
おとなしいクラスメート脅して、何やってんだよ僕は……。
 
「山本くん……」
「あの、ごめん。考え事しててちょっと……。ぜ、全然、藤原さんのことじゃないから」
「う、うん……」
 
でもおかげで冷静になれた。
姉さんはきっと、その男に何かされたんだ。何か……酷いことを。
……でもこんな風になっているということは――破綻したということだ。二人の関係が。
当たり前だよ。大切な人をこんな風に傷つけて、恋人で居続けられるわけがない!
もう終わりなんだ。姉さんとその男は……。
そう思った途端。昼間からずっと燻っていたわだかまりが、不思議と消えていくのを感じた。
 
今の姉さんは傷ついている。可哀想だ。
でも、なんというか、結果的にはこれでよかったんだよ。姉さんにはいいクスリになったと思うんだ。
ね、姉さんも、もっと、男を見る目を養わないと……。
そ、それに、そんな男なんかいなくたって、僕が姉さんについている。
今の姉さんを支えることができるのは、僕しかいないんだ。
姉さんを守れるのは、その傷を癒せるのは、励ませるのは、今日来た奴なんかじゃない。僕なんだ。
 
心が軽い。
前向きになってくると、先の先まで物事を見通すことができるようになる。
まずは梓達に気づかれないように、姉さんを家に連れて帰るんだ。それからだ、慰めてあげるのは。
今の姉さんは、きっと八つ当たりでもしたい気分なんだろう。
いいよ。僕が姉さんの気持ち、全部受け止めてあげる。八つ当たりされてあげる。
だからもう帰ろう? 僕ら二人の家にさ……。
 
――ピンポン
『音取川駅前、ねとりがわえきまえです。お降りの際は、足元にご注意下さい』
「わたし、行くね……」
あ、あぁ、そうか。藤原さんはここで降りるんだ。だから立っていたのか。
確かこの辺りのマンションに住んでいるんだっけ。
今日は色々世話になったというのに、帰り道ではなんだか気まずい雰囲気になっちゃって……。
罪悪感が募る。いけないことをした気も。
 
……と思った刹那、藤原さんは鞄を後ろ手にしてくるっと振り向いた。
よかった、笑顔だ。

「山本くん、“また”ね」
うん、月曜日に!
藤原さんはスカートを翻して、小気味よくステップを降りていった。





――って、姉さん?
ちょっと待ってよ、藤原さんの後についていってどうするのさ?
止まって止まって、梓に見つかっちゃうよ。
わ、駄目だって、ナイフ抜いてちゃ駄目! しまって! フタ閉めて!
だからついていかなくていいんだって! 藤原さんについていかなくていいんだって!
うわわっ 暴れないでよ! 落ち着いて、落ち着いて姉さん! そのナイフしまって!


――
―――

――ピンポン
『次は差桝町一丁目、さしますちょういっちょうめ。お降りの方はボタンでお知らせ下さい』

差桝町――僕達の住む町。
本来なら次のバス亭で降りなければならない。
しかしそれでは、ご近所の梓も当然一緒に下車することになる。
……それはまずい。姉さんを隠しきれない。何か手を打たなくては……。
 
「あず。僕ね、帰りにちょっと買い物しなきゃならないんだ」
「今から……ですか? こんな時間に?」
「うん。姉さんに頼まれていた物、忘れてて。それでさ、もう遅いからあずは先に帰りなよ。
僕はこのまま、勘斤通りの方まで乗っていくから」
一つ先のバス停まで乗り越す。
そこから歩いて、姉さんを家にお持ち帰り。これだ。
……あぁ、姉さんが裸足だったのを失念していた。途中でサンダル買ってあげないと。

「秋人さん……あの……」
スッと梓が立ち上がる。
ただそれだけの動作なのに、純白の翼をしなやかに伸び上げたような気高さが漂う。
……が、ここはそんなことに見惚れていられる場面ではない。
梓はなにか物言いたげに、僕の方へと詰め寄ってくる。 
……バ、バレたのか? 姉さん、もっと近くに寄って、寄って!

「な、なんだい、あず?」
「あの人……さっきの人、秋人さんのなんなんですか?」
……藤原さんのこと?
なにって、だからクラスメート、だよ。
最初に会った時説明しておいたはずだけど?
「あ、あの人、よくない人ですっ」
梓が珍しく表情を荒げて、搾り出すようにして叫んでいた。
よくないって……何のことだ? 
良いも悪いも、大体二人ともろくに話すらしてなかったじゃないか。
一緒に勉強していただけで、何をそんな……良くないって……。
……あぁそうか、勉強のことか。
藤原さんは、頭良い方だよ?
 
「あの人、絶対よくないですっ!」
「そんなことないって」
藤原さんは頭いいって。
そりゃ梓から見たらよくないかもしれないけど……だったら僕もドッコイドッコイだよ。
「あの女は、悪い女ですっ!」
「彼女はむしろ良い方だと思うんだけど」
特にこの間のテストじゃ、英語と現国は僕より点数良かったし。
「どうして庇うんですかっ!? あ、秋人さんはあの人と、付き合っているんですかっ!?」
――唐突に、チクリと背中に刺激が走った。
「痛ッ!?」思わず叫びがついて出る。
いたッ痛い痛い痛い痛いッ!! ちょっ、なっ、えぇっ!? 
――あ………ささってる。
うわあああああぁぁぁああああっ!!!
姉さん、やめてやめて、背中にナイフが! なんでそれ刺さちゃってるのッ!?
マジで刺さってるってッ!! 先っぽがちょっとだけぇ、刺さってるってぇ!! 
チクチクするってぇ! 危ないってぇ! 痛いってぇ! もう刺さってるてぇ!!
ってゆうか、いつのまにまた、それを抜いたの!? 
閉めてよ、フタしめて!! はやくっ!!

「『いた』って……そ、そんな……まさか……」
ちょっと待ってね、あず! 
あとでゆっくり話しを聞くから、ちょっと待って! 
梓に引き攣った笑みを投げかけながら、見えない背後を手探りする。
姉さんの手……つ、捕まえた!
 
「あの人と……本当に、付き合っていたんですか……?」
今たてこんでるから! あとにして、あとで!
そーっと、そーっと、そうそう、姉さん。
ちょっ、姉さん、大人しくして!
 
「い、今は違うんですよね? 『付き合っていた』って、今は付き合っていないんですよね!?」
さ、さ、ぱちんとフタしめようねー。ぱちんと。
後ろ手であやすように、それでいて渾身の力で凶器の隠蔽を促す。
しかし姉さんがイヤイヤとむずかるので、なかなかはまらない。
ふるふる震えている姉さんの手の小ささに、今日負った心の傷の深さを垣間見て、胸が痛んだ。
 
ふぅ……。
……えと、それで? 梓は何だっけ?
 
「秋人さんっ、そうなんですよね!?」
「え? あ、うんうん。そうそう。その通り!」
いつ姉さんのことがバレるのか冷や冷やする。ともかく調子をあわせておかないと。
……で、なんの話?
「そ、そうですか……」
「そうそう」
……で、なんの話?

「あの、でもやっぱり、あの人にはもう構わない方がいいと思うんです」
なんだ……まだ藤原さんの話をしてたのか。
どうしてそんなに藤原さんに拘るかなぁ。
「あの人は、秋人さんの思っているような人ではありません」
「彼女のことは、僕がよく知っているつもりだよ」
隣りの席だからさ。普段真面目に授業受けている事は、誰よりも知っている。
「騙されてますっ! あの人まだ、諦めてませんっ!」
騙されてるって……おいおい、藤原さんがカンニングとかするわけないだろう?
それに諦めてないのは当然じゃないか。まだ高二になったばかりだし、大学受験は来年だよ?
「秋人さん分かってください。お願い……!」
うわっ、おおっとと。
梓が急にシャツにしがみついてきて、バランスを崩した。
背後でぽすんとぶつかった姉さんが、そのまま抱きついて背中に顔を埋めてくる。
 
………。
……姉さん、あんまりスリスリしないでね。
……姉さん、あの、どうしてそんなに匂い嗅いでるの? 深呼吸くすぐったい……。
……ね、姉さん? ちょ、ちょっと今、舌が這ったような気がしたんだけど……。
あ、姉さん………。
お願いだよ……、もう泣かないでくれよ……。
僕のシャツでよければいくらでもハンカチ代わりにしていい。
だから涙を拭いて。早く笑顔に戻って欲しい……。
……あぁああ!! 姉さん、ドサクサに紛れてそんなとこで鼻かまないでよ!?

「秋人さん……。あの人だけは、やめてください……」
前も後ろも修羅場だった。
そうだ、梓の態度も変だ。
こんなにも感情的な梓、こんなにも必死な梓、少なくともこの三年間に会ったことがない。
一体どうしたっていうんだ。さっきから話が少し噛みあっていないような気もする。
よく考えるんだ、山本秋人。梓は何を僕に伝えようとしている? 梓は何を訴えようとしている?
「やめてって……何を? どうして?」
「……………」
梓が唇を噛む。
至極基本的な質問だ。
しかし梓はなんだか、ハッキリ言いたくとも言い出せない……そんな顔をしている。
「……あの人は……悪い女だから……」
そこなんだよなぁ。
他人の頭の出来の良し悪しをとやかくいうのは、感心しないんだが……。
そもそもどうしてそこに拘っているのか。
 
 
…………あ。

そうか、そうだったんだ……。
あず、君の気持ちに、僕はようやく気付けたよ……。
 
「分かったよ、あず。心配しないで」
「……え? じゃあ……」
「言う通りにする。藤原さんのは、もう忘れる」
梓の瞳に一瞬、喜悦の灯が宿る。
美しい睫毛が慌ててその灯をかき消した。
 
なるほどねぇ。名門校ってやっぱり違うんだな。ちょっとカルチャーショックだ。
こんな事で大慌てするなんて、梓の学校って宿題だけでも留年がかかるほど厳しいんだろうね。
 
そう。
どうやら僕は、とんでもない思い違いをしていたようだ。
 
梓の目から見ると、僕がコピーした藤原さんのノートは、凄まじく酷い出来。
それがさっきから、藤原さんの頭の良さ云々を騒いでた理由。
つまり、僕があのノートを丸写ししたら、きっと怒られるだろうと心配してくれていたんだよッ!

「ご、ごめんなさい……。なんだか私、さっきから勝手なことばかり言ってて……」
そりゃ言い出しにくかっただろうさ。
『写すな自分でやれ』なんて年上に面と向って忠告したら、嫌味な真面目人間だと疎まれかねない。
「いいんだよ。僕のことを心配してくれたんでしょ?」
「へ、変な子でしたよね、今日の私……。差し出がましいことばかり……」
「アレは、もう捨てる」

キッパリと言ってのけた。
古文の加藤先生がそこまでチェックするとも思えない。
仮に酷い出来でも、別に大した被害があるわけじゃない。
でも女学院に通っている梓の目には、笑い事に映らなかったんだろうな。きっと。
梓がここまで言ってくれたんだ。藤原さんのノートは捨てて、男らしく独力でやるとするか。
ごめんね、藤原さん……。っていうか、そこまで酷い出来なら僕の方がノート見せてあげないと……。

「……す、捨てられるのは可哀想だとは思います……けど、あの人はよくない人だと思うから……」
梓はもう、安堵の気持ちを隠しきれないみたいだ。
その気遣いが分かった途端、自然に頬が緩み始めていた。
僕のことをこんなに気にかけてくれている梓が、嬉しくて。なんだか懐かしくて。
でももうこれ以上、他人の悪口は口にして欲しくない。
だから僕は、ついついこう言っていた。
 
「でもさ、あずならいいよね?」

あず、頭良かったもんなぁ〜。今日宿題を手伝ってもらって、しみじみと実感した。
実はちょっと本気で、梓が代わりにノート作ってくれないかと期待しちゃってたりする。
あはははは。

「藤原さんは悪くとも、あずなら良いよね? 僕もあずだったら凄く安心だなぁ」
「………ぇ…………?」

まるで信じられないような物でも見たかのように、潤んだ瞳が大きく見開いた。
みるみるうちに、梓の頬が紅に染まっていく。
うんうん。褒められたのが、余程嬉しかったようだ。
「マジでお願いしちゃおうかなー、なんて。や、やっぱり駄目かなぁ……、ははは」
「……ぁ……ぇ……?」
すっかり放心してしまっているあず。
熱病にうなされているかのように上気した面持ちが、それでも僕を見つめて離さない。
ふふふ。そんなに謙遜しなくても、梓が頭いいのは事実じゃないか。梓が努力したのは事実じゃないか。
梓がこれだけ感情の篭った表情を見せてくれるのは、本当に珍しい。
僕もなんだか調子にのってきたぞ。
 
「でもね。僕にとっては昔からあずが一番だよ。これは本気で言っているよ?」
こんなにも無防備な梓の姿を見ていると、幼き日の彼女の影が重なって見える。
昔の梓は泣き虫で、いつも僕の背中に隠れていて、何かあるとすぐに甘えてきて……。
それでも僕が少し褒めてあげると、影でもの凄く努力しはじめるんだ。
頑張って、嫌な事にもじっと耐えて、いつの間にか困難を成し遂げてしまう。また褒めてもらうために。
……そんな子だったんだ。彼女はやっぱり変わっていないんだと思う。
セピア色の思い出が、僕の胸を暖かく充たしていく。
 
……。
で、でも……あれ?
あのー、梓……さん? 
……流石にそんな、泣きそうになるまでのこと……かな?
ちょっと褒めただけなんだけど……。
 
え? あれ?
 
「………ぅ、ぅそです………。………信じません………」
「嘘じゃな―――グェッ!?」

ぐぅええええええええええぇええええええぇええええ
ね、ねえざん、やべで……ぐ、ぐるじい……ぞんなにジャツを引っ張らないでぇ……
いぎ、息がぁ……。ぢょっとぉ……。
 
「……だ、だって秋人さんは、亜由美さんが……」
――って、痛いいたいイタイッ! 今度はまたナイフかいっ!?
もうやめてよ、これ以上は血が出ちゃうよ、勘弁してよー!
気が立っているのは分かる。後でしっかり話を聞いてあげる。
だからお願いだよ、その果物ナイフだけは本当にもうやめて……。
なんか、僕まで泣けてきちゃったよ……。
 
「……あ……秋人……さん? ど、どうして……?」
うぅ、グスッ。
もうそのナイフにはうんざりだよー。

「どうして……泣いて……。わたし……そんなの……。そんなの……」
うぅ、グスッ。あー、もう。
ほら、おとなしくフタ閉めてってば。これもう取り上げたいなぁ……。
うわわわわっ、姉さん噛み付かないで!! 分かった分かった、それ持ってていいから! 
 
ふぅ〜……。
やれやれ……。

「…………………ずるいよ…………」
え? 何が? 
どうしたのあず。深刻な顔して。

――ピンポン
『差桝町一丁目、さしますちょういっちょうめ。お降りの際は足元にご注意下さい』
 あ、ついた。
 
「…………………………………ばか」
不穏当な響きと青葉のような薫風を残して、梓はタタタタ……と小走りに降車ステップを下りていった。
……なんか、怒らせてしまったのかも。さっきは調子に乗って、ちょっと褒めすぎちゃったかな?
返って嫌味みたいに聞こえたのかもしれない……。 
後でメールで「一番じゃなくて、わりと上位」ぐらいにフォローしておいた方がいいのだろうか?




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<8>


深淵。
 
漆黒の翼を広げて迫り来る、静寂なる闇の咆哮。
 
……とか、その手のご大層な形容句をゴテゴテ飾り立てないと、ヤバさが修辞できないその状況。
山本家のお茶の間が今、なんかよくわからん異空間へと変位しようとしている。
 
 
僕こと山本秋人は現在、食堂のテーブルに座っている。
異変の発生場所は、ここから約六メートル程の地点。 
食堂とそのまま繋がっている、隣室のリビングルームの真ん中付近。
 
普通ならばリビングの室内蛍光灯が、快適な明かりを隅々まで届けてくれているはずである。
……はずなのに、今日は暗い。昏い。闇い。冥い。
今、リビングには正体不明の暗雲がたちこめ、そのプレッシャーが食堂をも侵食しようとしていた。
  
そしてそんな瘴気の渦の、中心部。
ポイント・ゼロに、僕にとってよく見慣れた人影が座り込んでいる。

僕に背を向けて、無言で正座している姉さん。
訴えている意味は、『お姉ちゃん怒っているからね』だ。

た、
 
たいへんだ。



――
―――

事態は急を要するので、ここまでの経緯を手短に説明する。
梓と別れてから、僕達は予定通り一つ先のバス亭で降りて、歩いて帰宅した。
道中、急に抵抗の気配を見せたり、唐突にどこかへ駆け出そうとする姉さんだったが、
なんとかずるずる引っ張ってきた。
相変わらず果物ナイフを手放そうとしないので、お巡りさんに誰何されないかヒヤヒヤしたもんだ。
 
そして家に着いた途端、今度は自分からスタスタと家の中に上がっていく姉さん。
台所の方に入っていってしまったので、僕は一通り家中に異変がないか確かめておくことにした。
別段どこも荒らされたりしてないし、床にシミがあったり、風呂を使ったりした形跡はない。
くんくん鼻を鳴らして、例の男の体臭でも嗅ぎ出そうともしたが、特に淫らな臭気もないようだ。
……でも、感じるんだ。
この家の空気には、姉さんの叫びのようなものが、姉さんの悲痛な涙のようなものが、籠められている。
姉さんはやっぱり、僕の居ない間に、ここで、その男に……。
 
一通り見回りを終えて台所を覗くと、姉さんが黙々と夕食の支度をしていた。
こんな時だというのに、こんな状態だというのに……。
健気な姉さんの後ろ姿を見ていると、思わず後ろから抱きしめてあげたくなる……。
 
――ダンッ! ダンッ! ダンッ!
 
まな板から激しい打撃音が聞こえてきた。
よく見ると、果物ナイフでキャベツを叩き切っていた。
傍らには空鍋が火にかけられている。
 
 
結局、なにやら野菜炒めのようなモノが出来上がった。
姉さんはそれにさっと白布巾をかけ。
エプロンをふわりと脱ぎ捨て。
 
そして、
そして……正座した。
 
 
後ろ向きで。
 
 
―――
――


さて、たいへんだ。
 
姉さんが、怒っている。
今まででも、僕が言いつけを守らなかったりすると、こういう状況に陥いってきた。
今回は八つ当たりなんだろうが、それでも相当怒っている部類に入る。
 
一旦こうなった場合、僕にはもう逃げ場はない。
自分の部屋へ移動すれば、姉さんも部屋の入り口までついて来て、また正座し始める。後ろ向きで。
風呂に入れば、脱衣所で正座をして待っている。
トイレに行けば、トイレのドアの向こうで正座をしている。……いつもいつも、後ろ向きで。
 
だから問題は、これからどうするかだ。
先例に従うのなら、土下座なり泣きつくなりして、徹底的に姉さんに許しを乞うところ。
もっとも姉さんはとても優しい人だから、フォローなしでも数日経てば許してもらえるだろう。
しかしそんな態度では、弟として大いに失格だと思う。
 
例えば一年ぐらい前にも、ふとしたことで同じ様に姉さんを怒らせてしまったことがある。
でもその時の僕は酷く疲れていて。姉さんに何もしてあげられず、そのまま寝てしまった……。
その夜、僕は酷い夢をみた。
誰かに首をぎゅうぎゅう締め上げられる、とても苦しい夢。
朝起きたら、首筋に本当に痣が出来ていたくらいだ。
人の精神と肉体はリンクしているという。映画のマトリックスでも言っていた。
リアルな夢をみたせいで、身体までが相応に反応して痣を作ってしまったのだろう。
姉さんを怒らせたこと、さらにそれを放っておいた事への罪悪感が強かったから、そんな夢を見たのだ。
だから今の姉さんの怒りにも、ちゃんと正面から向かい合っていきたい。
 
特に今日は、二つの点で今までよりも緊急性が高い。
ひとつめは、ズタボロにされた姉さんの心の傷だ。
姉さんは今日、悪い男に散々弄ばれ、蹂躙され、ボロ雑巾のように捨てられた。……きっと。
だからこんな風になってしまった。
僕には分かっている。僕への怒りは八つ当たりだと、分かっている。
だからこそ僕は、弟として、そんな姉さんをきちっと支えてあげなければならないんだ。
 
そしてふたつめ。……姉さんの手の中に、未だにあの「果物ナイフ」があるのだ。
まぁ、杞憂だとは思う。まさか、その、取り返しのつかない行為に及ぶなんてことは、ないとは思う。
それでもぎらぎら煌くあのナイフ、僕の視線を妙に釘付けにして止まないんだ。
本当なら今すぐにでも姉さんに飛びかかって、あのナイフをもぎ取りたい。
しかし僕の本能が強烈に危険信号を発していた。そんなことをすれば……それこそヤバイことになると。
だからこそ、平和的な説得によってあのナイフを放棄させなければならない。
 
だからね、姉さん。
今日は姉さんに、僕の「本気」をみせてあげる。
僕の本気――十六年間かけて培ってきた技術。平身低頭土下座して、姉さんのご機嫌を伺うスキルだ!
僕のありったけを込めて、全身全霊を賭けて、媚びへつらってみせるッ!!
……恥ずかしくて履歴書にはちょっと書けない特技だった。
 
よし。それでは今回のミッションのブリーフィングを始めるから、みんな聞いてくれ。
作戦の第一目標は、まず姉さんの怒りと悲しみを受け止めてあげることだ。
つまり一定時間、八つ当たりの矢面に立たなければならない。
そして第二目標は、姉さんの傷を癒し、慰めてあげること。つまりご機嫌取りだ。
そのため今回の基本戦術は『受け』となる。まずは防御戦を展開し、戦機を伺うのだ。
そして隙を見計らって攻勢に出る。すなわち―――媚びへつらう。
冷静に、正確に、大胆に、臨機応変に対処するんだ、山本秋人。本気で勝ちに行くぞっ!
 
 
>AKITO:HP(ヒットポイント)100%
>AYUMI:HP(ヒステリーポイント)100%
>Ready....GO!!



 
「姉さん。こっちきて、ごはんにしようよ」
まずは挑発。だんまりを決め込む姉さんの意識を、こちら側にひきつける。
頑張って、姉さん。
頑張って立ち直って。僕がそばについているから……。
 
「………」
「………」
「………」
「秋くんはさ――」
 よし、ここからが正念場だ。まずは防御を固めるんだ。
「……今日なにをしてたの?」
「図書館に行っていたよ」
「……どうして、そんなとこに、行ったの?」
「宿題をしに行ったんだ」
「理由になってないよ」(Damage! AKITO:HP-1%)

いきなりだが、ひるんではいけない。
決して理不尽だとか思ってはいけない。
今の姉さんが欲しているのは筋道や理屈じゃない。無条件の『同意』だ。
つまり姉さんが理由になっていないと言うのであれば、例えどれだけ筋が通っていても、
それはやはり理由になっていないのだ。

「いったい、なに、してたの!?」(AKITO:HP-2%)
問い詰めがリピートしている。こういう時は要注意だ。
先程と同じ答えを返す場合、しつこい=何か裏がある、と思われる。反抗的だとも受け取られかねない。
逆に違う返答をする場合、さっきと言う事が違う=騙した=やましい事がある、と展開する。
つまりどっちの道も、見渡す限りの地雷原なのだ。
下手に釣られて口を挟むよりも、むしろ無言を通した方がいい。悄然と頭を垂れるのがベスト。

「お姉ちゃん、帰って来てって言ったのにッ!!」(AKITO:HP-1%)
『事実』と『真実』の違いを弁えるのだ。
そんな事実があったのかなかったのかは問題にするな。
姉さんの認識こそが『真実』であり、それこそが今この場を支配している概念なのだ。
 
「携帯もいっぱい鳴らしたのに!メール出したのに無視したッ!どうしてそういうことするのッ!?」
(AKITO:HP-2%)
なるほど。
手元に持ってきた携帯には、着信11件・未読メール46件の表示がある。
これは全部、姉さんの心の叫びなのだ。悲鳴なのだ……。
姉さんが救いを求めていたのに、僕は守ってやれなかったんだ……。
最初のメールの受信時刻が三時三十六分。
僕が出かけてから一時間半のその間に、姉さんは、その男に……。
 
「僕が悪かったんだよ。携帯を家に忘れたから……」
「ちゃんと居場所教えてって、いつも携帯持ち歩いてって、お姉ちゃんと約束したッ!!」(AKITO:HP-1%)
携帯を忘れるに至った経緯などを、ここで持ち出すのは自殺行為だ。文字通り。
姉さんの手の中に、果物ナイフがあることを忘れてはいけない。繰り返すが、文字通り自殺行為なのだ。
結論のみを黙って受け入れられるかが、弟としての器量というものだろう。

「ごめん。もう絶対こんなことないように気をつける……」
「秋くん、全然わかってないッ!!」(AKITO:HP-2%)
謝罪や反省の言葉も、多用するとかえって逆効果となりうる。
言い訳と受け取られればその時点でアウトだ。
ただひたすら、姉さんからの非難に甘んじる姿勢を心がけよ。
そしてタイミングを見計らって、媚びへつらうのだ。
 
 
>AKITO:HP 91%
>AYUMI:HP 100%
>Ready....GO!!

「秋くんは梓ちゃんがいればいいんだよ! どうせお姉ちゃんなんかどうなったっていいんだよっ!!」
唐突に無関係な人名が登場しても、ひるんではいけない。
つい『どうしてそこで○○○が関係するの?』とか聞き返してしまうと、盛大にドツボにはまる。
心当たりがないのなら、わけが分からずともきっぱりと、毅然と、胸を張って否定した方がいい局面だ。
 
「そんなことないよ。絶対に違うよ」
「違わないよッ!! あの女! 藤原の泥棒猫とも一緒にいたッ!! 
あの女にすっかり誑かされて、お姉ちゃんのことなんか忘れてたんだよッ!!」
「絶対に違う。ありえないよそんなこと」
また無関係な人名だ。今度は藤原さんか。
この辺は僕も手馴れたもので、もう機械的に全否定していく。スキルアップの賜物だ。
下手に返事に間をおくと、『言い訳を考えている→図星だった』という公式に当てはめられてしまう。
わけが分からないことは即座に全否定しておいて、後で意味を考えるというのも一つの手なのだ。
 
例えば藤原さんによくついてくる『泥棒猫』という形容。僕は未だにその定義に自信がもてない。
国語辞典には、「他家の食べ物を盗む」という意味が載っていた。
しかし藤原さんに弁当のおかずを盗られた記憶などないし、そんなことをする子ではない。
だから気になって、藤原さんに以前、猫について尋ねてみたことがある。
彼女はどうやら猫好きで、家でも数匹飼っているそうだ。……ここに至ってようやく話が繋がった。
 「泥棒≒汚い」だから、不衛生という意味なのだろうか?
確かに家庭内でペットを飼っていると、雑菌などが多いと聞く。食事に毛が混ざることもあろう。
若干差別的な表現だけど、たぶんそういう感じのことを言っているんだと思う。よく分からないけど。
姉さんは潔癖症なのだなぁ。
   
「――――――でしょッ!? 秋くんッ、答えてみせてよッ!!」
……ハッ!?
いけない、よそごとを考えすぎた!!
 
「やっぱり聞いてないッ!! お姉ちゃん無視した! お姉ちゃんを、無視したぁああーーーーッ!!」
(AKITO:HP-7%)
あわ、あわ、あわわわ。
ホラこの通り、一瞬の油断が命とりになるんだ――――なんて、冷静を気取っている場合じゃない!
た、立て直さなくちゃ! 姉さんがナイフを手首に当てている!!!

「違うよ! 僕が悪かったんだ! もう反省して、自己嫌悪で、どうしようもなかったんだッ!!」
自分でも何を言っているのか分からないが、ともかく『僕が悪い』ということをアピールする。
今の姉さんが求めているのは、終局的には『僕が悪い』という認識そのものなのだ。
だから、こういう返し方がマイナスに働く可能性は低い……と思う。
「嘘だよッ!!!」
「嘘じゃない!」
「秋くんきらいッ!! だいっきらいッ!!! うっ……ふええぇえ……ひっくっ」(AKITO:HP-3%)
なんか僕まで、本当に泣けてきた。
八つ当たりだと分かっていても、姉さんに『嫌い』と言われるのは流石に……堪える。
 
「ひっく……ぐすっ……」
「………」
ナイフは手首から離れたが、今度は姉さんの喉元に近づき始めている。
そのまま喉を貫いてしまう、なんてことはありえない。流石にそこまでするわけがない。
……と思いつつも、輝く白刃から目を離せない。ゴ、ゴクリ。


>AKITO:HP 81%
>AYUMI:HP 100%
>Ready....GO!!

「どうせ、あの娘達とあんなことやそんなことしてたんでしょっ! どうせ!
この、変態ッ!変質者ッ!孕まし屋ッ!馬鹿ッ!馬鹿馬鹿馬鹿ァアアーーー!!」(AKITO:HP-2%)
な、な、なんだってぇ!? 
また唐突に盛大に話が飛躍したぞ。
あんなことやそんなことって、今日僕は何かをしたのだろうか? 
単に一緒に宿題をしていただけだが……それがイケナイことだったのだろうか?

「あの娘達ばっかり手を出して、お姉ちゃんには手を出さないのはどうしてようッ!!馬鹿ァアア!!」
(AKITO:HP-4%)
姉さんがじたばたと腕を振る。
ちょ、ちょっと待ってよ、姉さんは何を言っているんだ?
僕は『手を出した』んじゃない。逆なんだ。宿題をするのに『手を借りた』んだ。
……い、いかん、よく考えたら防御戦線が崩れかけている。
と、ともかく否定だ。わけが分からなくなったら全否定だ。
「絶対に、そんなことはないよ」
よし。
 
「じゃあお姉ちゃんにも手を出してよッ!! お姉ちゃんだけに手を出してよッ!!!」
姉さんに、手を貸せばいいのだろうか?
もっと姉さんを手伝え、手助けをしろ、姉さんだけを守れ……と、そういうことなのだろうか? 
それならばはっきりと意味が通じる。
……今日だって僕は、姉さんの危機に何もしてあげられなかった。
家にいなかった理由はどうあれ、それは悔やんでも悔やみきれない。
もっと何かしてあげられたはずなのに。もっと姉さんを守れたはずなのに。
姉さんの言っていることは……どこまでも正しい。
僕は弟失格なんだから……。

「ごめん……。本当に、ごめん。これからは気をつけるよ……」
「口ばっかりだもんッ! 秋くんいつも、口ばっかりで何もしないもんッ!!!」(AKITO:HP-2%)
「本当に……もう……は、はんせい……してる……」(AYUMI:HP-3%)

語尾は掠れて、もう声になっていない。
僕の頬をつたって、テーブルの上に小さな水たまりが広がっていく。
ゆるしてくれ、ねえさん。ぼくを、ゆるして……。
 
姉さんの喉元。
高度を上げていた果物ナイフが、少しずつ下に降りてきた。
ぼやけた視界でそれを把握した僕は、安堵のあまりそのままテーブルに突っ伏しそうになる。


>AKITO:HP 73%
>AYUMI:HP 97%
>Ready....GO!!

「秋くんはさ……お姉ちゃんなんか、必要ないんだよね……」
ボソッと、力なく姉さんが呟いた。
単純なる要不要論だ。姉さんからの攻勢が一旦手詰まりになり、単調になってきた証拠。
――隙ありっ!
さっきまでの涙もどこ吹く風だ。
今こそが僕の勝機! 今こそが討って出る時!
今こそが……媚びて媚びて媚びまくって、ご機嫌取りをする隙なのだ!!
 
「姉さんがいなくちゃ、僕は生きていけやしないよ。いつだって大切に思っているっ」(AYUMI:HP-5%)
炎よりも熱く! 鼓動よりも昂らせて! 届いてくれこの想い! この媚態!
「……お姉ちゃんが寂しがってても、秋くんは平気じゃない……」
姉さんが居てくれなくちゃ、僕だって寂しいさ。寂しくて死んじゃうよ、きっと!」(AYUMI:HP-4%)
羞恥心とか男の挟持とかは、かなぐり捨てろ。攻める時はトコトン熱く畳み掛けるのだ。
「だって……」
効いている! 姉さんの纏っている瘴気が、薄まってきている。
このまま一気呵成に攻め立てよう。全軍すすめ! 突撃!
「僕は姉さんに甘えっぱなしだからさぁ。 こんな優しい姉さん、世界中どこを探したっていないよぉ」
(AYUMI:HP-5%)
甘く、撫でるように、蕩けるような声を出す。……自分で鳥肌がたった。
しかしイケる。これならイケるぞ! 調子のってきたぞう!
「姉さんは、世界一のお姉ちゃんだよ!」」(AYUMI:HP-4%)
「そ、そうか、なぁ……」
「姉さんは、お姉ちゃんの中のお姉ちゃん。お姉ちゃん・ザ・ベストだよ!」
 
 
「でも、梓ちゃんのことが……一番だって…………言った」

突然。本当に突然。
まるでいま思い出したかのように、順調だった戦気の流れが変わる。もう、コロッと。
語尾になるにつれ、姉さんの声のトーンが低く低く轟くようになっていく。
魔闘気がリビング中を渦巻き始める。
 
え? え? え? え? 
何か様子が変だ。
撃ちかたやめ! 全軍防御体勢!
と、ともかく、否定だ! わけが分からない時は全否定。
「それはないよ、絶対にない」

「言ったッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」(AKITO:HP-8%)

そ、そういわれれば言ったような気も……。
  
「もう秋くんの言うことなんか信じないッ!! うぅっ…馬鹿ぁぁぁぁあああ!!」(AKITO:HP-3%)
「……いや、それはネ。そういう意味じゃなくてネ。なんというか……」

>AKITO:HP 62%
>AYUMI:HP 79%
>Ready........
 
…………
………
……


結局かれこれ一時間程、一進一退の攻防を続けている。
しかし今日は特に大変なのだ。
気を抜くと姉さんのナイフが喉元を彷徨い始めるため、余計に必死にならざるを得ない。
まだまだ序の口だというのに、僕は早くも疲労の色を見せ始めていた。
 
父さんがよく言ってたっけ。
女の人のヒステリーはたいへんだって……。
はぁ……。

「秋くんはさ、お姉ちゃんのこと飽きちゃったんだよ! もう見捨てるつもりなんだよッ!!」
同じ様な攻防の繰り返し。
同じ様な言い合いの繰り返し。
苛立ちだけが、少しずつ募っていく。
「そんなことないって……。僕は姉さんを見捨てたりしない」
「もう信じられないよ……! 秋くんの言うことなんて信じられない……!!」
姉さんが両耳を抱え込んで、イヤイヤと肩を振る。
「信じてくれなくたっていい。僕はいつだって姉さんのそばにいる」
そうだ。僕はいつだってそばにいる。
いっしょにいる。
ずっと、いる。
 
……疲れていたからだろうか。焦っていたからだろうか。
ふと。耳元の風が、優しく揺らめいたような気がした。
ここに居もしない梓の囁きが、どこかで聞いた音色を奏でる。
あの時の言葉。あの時の――
 

――――『姉弟だって、いつも一緒にいられるわけじゃありませんし』――――

  
………。
ち、違う……。ちがうんだ、あず……。
違う……僕はずっと姉さんのそばにいる……。

本当に違うのですか、秋人さん?
今日は秋人さん、どこにいたんです?


「秋くん、お姉ちゃんからどんどん離れていっちゃうものッ!!」
「……そ、そんなことない! 僕はずっと姉さんと一緒にいる! 姉さんを支え続ける!」


――――『血の繋がった姉弟なら、いつまでも一緒にはいられませんし』――――
   
 
やめろ……やめろよ……! なんなんだよッ!
なんでこんな事思い出すんだよ!
なんでこんな時に思い出すんだよッ!
そんなこと関係ない! 大切な事じゃない!
姉さんを守れるのは、ぼく―――
 

それならどうして亜由美さんは、
こんなに、泣いているのでしょうねェ?


「それなら! どうして帰ってきてくれなかったのッ!? どうしてそばにいてくれなかったのッ!?」
「…………………」 
頭が、ぼんやりする。
大切だったはずの想いが、身体から溶け出して、揮発する。
 
「帰ってきてくれなかったじゃないッ! お姉ちゃんのこと……見捨てたじゃないッ!!」
「それは………携帯を、家に、忘れたから……」
違う……。僕が言いたかったのはそんなことじゃない……。
今の姉さんに、こんなことを、言っては駄目なのに……。
「言い訳なんか、聞きたくないよッ!!!」

――――『いつも一緒にいられるわけじゃありませんし』――――
ぼく……は……
               
「お姉ちゃんなんかどうだっていいんだよッ!お姉ちゃんを捨てるんだよッ!」

――――『いつまでも一緒にはいられませんし』――――
ちがう……ちが……う……

「嘘つき! 嘘つきッ! 嘘つきッ!! この大嘘つきィィィイッ!!」
「…………ちが……う……」
力を振り絞って、ようやくその言葉だけを搾り出せた。
 
「じゃあ、どうして私を置き去りにしたのッ!? どうして一緒にいてくれなかったのッ!?」
姉さんの白い首筋に、ナイフがスッと添えられる。
ぎらぎらぎらぎら輝くナイフ、鈍く、冷たく。それがどこまでも、哀しく。

……僕はどうして、こんなことをしているのだろう……?
 
もういいじゃないか。
もううんざりだよ。
姉さんも、死にたいなら勝手に死ねばいいじゃないか。
なんかもう、つかれたよ。
 
だって
どうせぼくらは、いっしょにはいられないから。
いつまでも、いっしょにはいられないから。
きょうだいだから。
きょうだいなのは、もうどうしようもないから。
なにをしたって、むだだから……。
ねえさんとぼくは、
いっしょになれないから……。
………
……

 
なにもする気がしない
なにも言う気はない。
冷め切ってしまった理性は、同じように冷たい光を放つナイフの行く末を、ただ黙って見守ろうとする。
 
もう、これで精一杯なのかな?
ぼくができるのは、ここまでなのかな?
僕の想いは……これでもう、全部なのかな?
 
身体の奥底で眠っていた小さな小さな残り火だけが、胸に痞えるように、己の存在を呼びかけてくる。
 
「そうさ、たしかに僕は姉さんを置き去りにしたよ」

…………………あれ?
気がつけば、無意識がすらすらと言葉を織り綴っていた。
僕は一体、何を口走っているんだろう?
妙に落ち着いている自分を自覚する。
どこかで聞き覚えがある、このフレーズ。

「でも、それは姉さんの邪魔をしたくなかったからなんだよ」
テレビのスクリーンごしに自分を見ている、そんな他人事のような気分。
己の口が勝手に紡いでいく言葉を、胡散臭げに聞き入っていた。
  
あー、テレビで思い出した。
これ、昼間姉さんと一緒に観ていたドラマの台詞だわ。
なんとかオウガとかいう、あの変なドラマ。
くだらねー。こんな時にテレビドラマの真似かよ。阿呆か僕は。
 
「嘘だよッ! お姉ちゃんと一緒にいるのが嫌になったんだよッ!!」
心なしか、姉さんの台詞までドラマと似ているじゃないか?
笑える笑える。調子でも合わせているの?
 
 
……………。
なぁ。
本当に僕は……無意識で喋っているのだろうか?
本当は、全部分かっていて、自分の意思で喋っているんじゃないのか?
台詞のせいにして。あとで誤魔化せるようにして。
 
いや、そんなはずはない。
だって本来なら僕は、ドラマの台詞なんてろくに覚えているはずがないんだ。
りんごを食べるのに一生懸命で、ろくにテレビを観ていなかったじゃないか?
今だって、ドラマの内容がどんなだったのか言えないだろう?
おかしいんだよ。僕がドラマの台詞を喋れるのは。
だからこれは無意識なんだ。僕の考えじゃない。僕の意思で喋っているわけじゃない。
ぼーっとしているうちに、無意識が耳に残っている言葉を勝手に口走っているだけだ。

「違うよ、姉さん」
 
そうだ、違うだろう。
無意識で喋っているのなら、台詞を覚えていないのなら、
……どうして僕は、『これ』がドラマの台詞だと気づいたんだ?
 
ドラマの台詞のせいにして、自分の言いたいことを言おうとしているだけじゃないのか?
雰囲気に流されて、どさくさに紛れてみるつもりなんじゃないのか?

「僕は」
 
山本秋人は。
ソイツがドラマの台詞を覚えているというのならば。
ソイツが次に何を言うことになるのか、ソイツ自身がもう知っているはずなのだ。
 
それとも切羽詰まって、自棄になって、
似たようなシチュエーションのドラマの台詞を、うろ覚えで口走っているだけなのか。
この後、何が起こるのかも知らずに。
 
「僕は、姉さんを」

わざとなのか。無意識なのか。
………もう、どっちでも、いいかな、と思えてきた。





「愛している」




おどろくほど、あっけなく。
ことばが、むすぶ。



びくん。
姉さんの身体が、ひときわ激しく痙攣した。
 
 
 
「愛している人に、いなくなって欲しいわけない」
 
 
 
ぽとん。
あの忌々しい果物ナイフが、遂に姉さんの手から転がり落ちた。
 



あぁ。
やっぱり。



効いちゃったみたい。


……………
…………
………
……


「だからさ、いつも言われているんだよー。『お前が羨ましい』『俺も優しい姉ちゃんが欲しい』って」
「そ、そう、かなぁ?」
「姉さんの弁当食べてるとさ、みんな羨ましそうにして。気を抜くとおかずを横取りしようとするんだ」
「えぇっ!? だ、駄目よ秋くんッ! 駄目なんだからぁ!!」
「勿論! 米粒一つすらやるもんか。連中に見せびらかすようにして、全部おいしく食べちゃうんだよ」
「そ、そうなんだぁ」
「うん。他にも『あんな綺麗なお姉ちゃん、俺にも紹介してくれよ』とかさ、言われたり」
「で、でもでもぉ。秋くんって、本当にそういう人を紹介してきたこと、なかったよね?」
「そりゃあそうさ。あんな奴らなんかにゃ、絶対渡せないねぇー」

脳内BGMはG線上のアリア。実にほんわかしている。
我ながら、自分の「本気」の力が恐ろしい。情け容赦ない媚びっぷりだ。
リビングを覆っていた正体不明の暗雲も晴れ渡り、今や何の変哲もない空間へと変位を遂げていた。
ほのぼのペースで展開するやり取りが、戦いの終結をぷんぷん漂わせている。
……というか、姉さんが好き好んでダラダラ引き延ばしているような気さえする。

「そ、それじゃあさぁ、秋くん……」
頬を赤らめ、長い睫毛の奥に上目遣いを見せる姉さんが、遂に、ついに、そっと振り返る。
あぁ……天岩戸のご開帳だ!
久しぶりに見せてくれた姉さんの横顔に、まさしく太陽の女神の再臨を仰いだ気分。
「お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞く?」
モードが切り替わった。
これは『お姉ちゃんおねだりするからね』モードだ。まぁ慰謝料の算定作業みたいなもの。
僕を赦してくれる姉さんの優しさに、どれだけ感謝の気持ちを示せるか、その交渉に入る。
「ごめん」で済んだら、行列のできる法律相談所に行列ができない。
赦して貰うためには、こちらからも誠意を捧げなければならないのが世の中の仕組みなのだ。

・耳掃除させる権、十回。
・お買い物同行権甲種(※姉さんの洋服選定を含むもの。下着は洋服に入らない)、五回。
・お買い物同行権乙種(※腕組みしながらのウィンドウショッピングを強制される)、七回。
・夏休み姉弟泊りがけ旅行権(※姉さんの強い要望により泊りがけに変更)、一回。
・免許取りたてお姉ちゃんの助手席に座ってもらう権(※命がけ任務)、三回。
・現在の携帯とは別に、姉さん専用回線の携帯電話を一つ持ち歩くこと。

今日はもう、悪い男に傷つけられた姉さんを慰めるための日だからな。
姉さん側の要求のうち、そもそも実行不可能なものを拒否した以外、全て丸呑みした。大盤振る舞いだ。
中には今まで頑なに拒んできた要求もあるが……まぁいいか、今回は。あはははは……。
……消化するのは、結構大変だろうなぁ……。


……
………

そして今は、二人で遅い夕食を摂っている。
姉さんはどこかぽーっとしていて、僕の方ばかりちらちらと覗き見してくる。
なのでほとんど、いや全く、箸が進んでいない。
……まぁそれでもなんだか、やけに嬉しそうな姉さんだから。
これでいいんだろう、きっと。
 
僕を散々悩ませてくれた果物ナイフは、あれっきりリビングの床に打ち捨てられたままだ。
代わりに、今の姉さんの手元にあるのは耳かき。
食事が済んだら、早速始めるつもりなんだろうな。
姉さんに耳掃除してもらうのは好きなんだけど、まぁ色々あって、頻繁に頼む気にならないのだが……
……それでもやっぱりこっちの方がずっといい。果物ナイフなんかより、よっぽどいい。

あー。うん。
まぁ、問題としては、その。なんか、「言っちゃった」けど。
あ、あれはその場の流れだったし。無意識でドラマの真似事してただけだし。
「姉として」という意味だし。深い理由はなかった、と。そう自分で結論づけている。
ふ、普通さ、姉弟でそんな言葉をマジで受け取ったら、ギクシャクしたり怒られたりするもんだろ?
姉さんは別に怒ってないみたいだから、ちゃんと分かってくれていると思う。その辺のノリは。
 
あと、それから。
姉さんの身に一体何が起こったのか、その男に何をされたのかも、結局聞けずじまいに終わった。
でもそれも、そっとしておこうと思う。
下手な詮索をして、忘れかけている傷跡を抉るような真似はしたくない。
現に姉さんは、今こうやって幸せそうに微笑んでくれている。
僕が、この笑顔を取り戻したんだ。僕が、姉さんを支えきったんだ。
それだけで、僕は充分に満たされている。
 
そうさ。
僕らは、たった二人きりの家族なんだ。
いつだって、支えあって。
どんなときだって、助け合って。
そうやって二人で頑張って生きていく。
 
それが、姉さんとの二人暮らしで学んだことだから。
姉さんが僕に―――教えてくれたモノ、だから。
 
 
おっと。食事の後片付けを済ませてしまった姉さんが、リビングで呼んでいるみたい。
白ふさの凡天をフリフリしながら、膝の上をぽんぽん叩いている。
って、どうしてわざわざ服を着替えてくるかなぁ。そんなスカートに……。
 
うぅ、一旦姉さんに膝枕されると、居眠りするまで強制的にホールドされるんだよなぁ。
姉さん曰く「お姉ちゃんの膝枕で眠くならないのは、弟として不健康」ということらしい。
でもなぁ。僕はどういうわけか、膝枕で寝ると異常に寝涎を垂らしたり寝汗をかいたりするらしいんだ。
前の時も、なんか妙な匂いのねっとりした液で、姉さんの太股をべとべとにしてしまって……。
姉さんは顔を赤らめながらも、「気にしない」と言ってくれた。
けれど僕はなんだか姉さんを穢してしまったような気がして、しばらくは落ち込んでいたものだ。
だから耳掃除はあまり気がすすまないのだが……、まぁ今日は仕方ないかな。
 
 
さて。
それじゃあ、僕ももう行くとするよ。
姉さんが……待っているから。
 
 
 
 
 

あぁ、それにしても。
姉さんをあんな風に傷つけた奴は、いったい誰だったんだッ!!!    (←←←←←)




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「もう、いいよね……? 亜由美“お姉ちゃん”」

もう、気は済んだよね。
もう、充分楽しんだよね。

……だからもう、いいよね? 

………
……


月光のシャワーに抱かれて、仰ぎ見る。
 
貴女のための、貴女だけのための家。
――貴女の忌まわしい愛欲が紡いだ、歪の繭。

今もきっと、あの明かりの下で。
鳥篭に閉じ込めたあの人を愛でて。心地よい妄想に酔いしれて。
……虚ろな夢を結んでいる。

でももう、いいよね?
亜由美“お姉ちゃん”?
 
 
嗚呼、懐かしい響きだね、“お姉ちゃん”
“お姉ちゃん”と、“お兄ちゃん”と、“わたし”
……三人で、いつまでもきょうだいのはずだったね。
私は、そう思っていたよ?
 
うん、“わたし”もあの人に恋をしていたよ。
けれどもそれは、三人で一緒に育んでいけたはずの想いの欠片。
あの人が私を選ばなくても。
貴女を選んでも、他の人を選んでも。
……私はそれを祝福できるつもりだった。
それでも私は、ずっとあの人の「妹」でいられたはずから。
 
 
貴女が。
貴女があの人に、選択肢を突きつけなければ。
「姉」を選ぶか「妹」を選ぶか、両の皿に載せた天秤を、あの人の前に差し出さなければ。
こんなことにはならなかった。
 
 
貴女が、「姉」を、選ばせた!
まだ選ぶ必要なんか、なかったのに!
あの時の私には、まだ何も出来なかったのに!!
私の持っていた「妹」は、貴女に殺された!!!
私の“お兄ちゃん”は、貴女に奪われたッ!!!!
 
 
貴女は最初から知っていたんだ。
「姉と二人で暮らす」か、「三人で一緒に暮らす」か――
――たったそれだけの選択でも、結論は容赦なく敗れた者を追い詰める。
まだ小学生だった私には、「選ばれなかった」という結果だけが突き付けられる。
一緒に暮らせる日々に胸躍らせていた私には、「見捨てられた」という事実だけが残る。
貴女はそれを知っていて……“お兄ちゃん”に、選ばせた。


でもね、今なら分かるの。貴女がああするより、他になかったこと。
だって貴女は……私を恐れていたんだもの。
私が怖くて怖くて、どうしようもなかったんだもの。
仕方なかったんだよね? 亜由美“お姉ちゃん”には。
 
うふふふ。ねぇねぇ、そんなことよりも“お姉ちゃん”
……今の私は、もうへーき? もうこわくない? もう……私のこわさを忘れちゃった?
 
いいのかな……? 
いいのかな、まだ繭の中で夢を見続けていて……?
今の私は、もう知っているよ? 
貴女のよわさを。自分のつよさを。
貴女は狂う程度しか術を知らないほど……………よわいひと。
 
 
かんたん。とてもかんたん。
今日だって、私、何もしてない。
 
ほんの少しだけ。
あの人の中の小さな小さな迷いの種に、ほんの少しお水をあげただけ。
なのにあの人ったら、揺れる揺れる。
うふふふ、おもしろい。
 


 
貴女が教えてくれたんだよ?
誰かを愛する処には、奪うか奪われるかしかないことを。
想いの行き着くその場所は、愛する者を閉じ込めて独占する、束縛の岩の檻だということを。
 
それが……
貴女が私に―――教えてくれた、モノ。
 
 
 
だからね、教えてあげる。
今度は私が、教えてあげる。
貴女がどんなに足掻こうとも、孵化した想いが羽を広げて、その繭を飛び立つ日など来ない。
貴女がどんなに叫ぼうとも、世界は貴女の血の繋がりを忘れない。忘れさせない。
女がどんなに狂おうとも……二人は一緒に、いられない。いさせない。
それを、教えてあげる。
 
教えてあげる。 
奪って、あげる。
犯して、あげる。

 
そして最後に
 
殺して、あげる。
 
 
あの人はもう、“お兄ちゃん”でも“秋くん”でもない。
私のためだけの。“秋人さん”だけになる。
……だから、殺してあげる。
貴女の心の中の“秋くん”を、殺してあげる。
貴女のかわいい「弟」を、殺し尽くして、あげる。


立ち去り際。
街灯ごしにもう一度見上げる、色鮮やかなカーテン。
朧げに佇む、貴女の歪んだ想いのカタチ。
――あまりに脆い、軋んだ背徳の繭。
まるで遠い遠いあの日、三人で作った砂場のお城のようだ。
 
黄昏どき、別れしな。わたし達があのお城をどうしたか、貴女も覚えているはず。




わたし、



もう、













壊しますから。







山本くんとお姉さん2  
〜『教えてくれたモノ』
Fin


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山本くんとお姉さん3  
〜『とどめえぬカタチ』




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